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月ヶ瀬の歴史

更新日:2019年11月7日更新 印刷ページ表示

奈良時代から中世

月ヶ瀬梅渓の画像1 奈良時代から大安寺などの荘園として、また、そま地(南都の大寺の建築用材を切り出し、木津川水運を利用して木津から奈良まで運ぶための地)として発展しました。
 平安時代以降は、興福寺(春日大社と一体)の勢力範囲で荘園化され、中世期は在地土豪の支配下となりました。

江戸時代

 江戸時代になると当初大和郡山藩になり、その後幕府直轄領いわゆる天領となり、また、再び69年間大和郡山藩の領地となり明治を迎えました。
 江戸時代は年貢納入の取立ても厳しい上、農地が狭隘な土地であるため、在所の人々の生活は困難を極めたが、米に代わる収入源として、梅林の実で製する「烏梅」の需要や、副業として婦女子が従事した奈良晒の生産によって生活を支えました。
 烏梅とは、紅花で染める紅染めには欠かせない色素定着の媒介剤であり、江戸末期になると京都や大阪の問屋で飛ぶように売れ、その収入で村人の経済を豊かにしました。
 そこで村人は、競って畑や山を開いて梅を植樹したことが、あたり一面梅で埋めつくす景観となり、五月川の渓谷美と相俟って、その眺望はあまりにも美しい月ヶ瀬梅渓の誕生となりました。

明治時代から現在

月ヶ瀬梅渓の画像2 江戸時代末期から明治にかけて、その眺望に魅せられた儒学者の頼山陽や斉藤拙堂等の著名な文人墨客や政治家が多数来村し、世に紹介されて、天下の名勝「月瀬梅林」として有名になりました。
 その後大正11年には、史跡名勝天然記念物保存法第1条により「名勝月瀬梅林」として、奈良公園・金沢の兼六園と共に第1号の指定を受けました。

 明治22年の町村制施行により月瀬村が誕生し、昭和43年に村名を「月ヶ瀬村」に改め、平成17年には奈良市と合併し今日に至っています。
 人口は、1778人(平成21年3月現在)で経済・観光活動は活発で、特産品の大和茶・しいたけ・梅の加工品等は月ヶ瀬ブランドとして知られています。特に大和茶の生産量は奈良県1位を誇り、優良産地として名高く、また、観光面においても、早春の観梅を中心として、平成10年「梅の郷月ヶ瀬温泉」の開設もあり、年間約50万人の観光客が訪れます。

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