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木造理源大師坐像

更新日:2022年3月28日更新 印刷ページ表示

 十輪院本堂後方の合の間に安置される等身大の肖像彫刻であり、平安時代前期に南都で学び、後に真言密教の灌頂を受け、京都に醍醐寺を開いた理源大師聖宝(りげんだいししょうぼう)(832-909)の御影として篤く信仰されています。理源大師はまた当山派修験道の祖とされています。
 頭頂が尖り、垂れ眉で、喉仏に皺を四条刻む、といった容貌は、他の理源大師像の身体的特徴に一致するものの、膝に置いた左手や胸に上げた五鈷杵を握る右手の指使いは、理源大師像の通例の形とは異なり、後世改変されたと推定されます。当初は左手で衣の端を持ち、右手は前に伸ばして五鈷杵を握る姿であったかと思われます。
 頭部内の墨書銘によって本像は、慶長19年(1614)6月、十輪院の僧善賢が施主となり、南都大仏師宗印(そういん)および弁蔵(べんぞう)によって造立されたことが分かります。
 作者宗印は兄宗貞(そうてい)とともに、天正14年(1586)豊臣秀吉発願の方広寺大仏や、同18年の金峯山寺蔵王権現立像など、桃山時代を代表する巨大な仏像彫刻を造立した南都大仏師として著名です。
 宗印は、近年の研究によると、戦国時代に宿院町で活躍した宿院仏師源次の息子であり、棟梁源次のもとで兄源四郎とともに仏像の製作に携わりましたが、桃山時代に入って宿院工房が北室町(きたむろちょう)に移転した後、兄源四郎は隣の下御門町(しもみかどちょう)に工房を構え、弟源五郎は北室町にとどまり、それぞれ南都下御門大仏師宗貞、および南都北室大仏師宗印と名乗って造仏活動を続けたことが分かっています。
 宗印と弁蔵の名を連記するのは、ほかに慶長11年の大阪市・見性寺阿弥陀如来坐像、同12年の奈良県桜井市・文殊院最勝老人立像など数例が確認されており、弁蔵は棟梁宗印のもとで造仏に携わった仏師とみられます。
 江戸時代を遡る理源大師の彫刻遺品は少なく、醍醐寺開山堂の鎌倉時代(弘長元年(1261))の作が伝わりますが、奈良市内では本像が既知の作例中最も古いです。容貌は、目を見開いて、やや上向きに表されます。体つきは、横幅があり、厚みも深く造られ、安定感に富んでいます。肉取りは平板であるものの、衣褶は堅実な彫法で表されています。桃山彫刻の中では量感豊かな大ぶりな体形の肖像彫刻であり、その穏健な作風は南都の伝統的な造像風土を示唆するところでしょう。
 本像は、桃山時代に活躍した南都大仏師宗印の一作として注目され、また奈良市内の桃山彫刻の基準作としてもその価値は高いです。

木造理源大師坐像

 
件名 木造理源大師坐像
  ​像内に慶長十九(年)、南都大仏師宗印等の銘がある
かな もくぞうりげんだいしざぞう
数量 1躯
指定(分類) 奈良市指定文化財(彫刻)
指定日 令和4年3月25日
所在(有) 奈良市十輪院町27 十輪院
小学校区 飛鳥
形状等 像高80.9cm
頭部内面墨書「慶長十九丑六月吉日/貞怡/妙怡/空阿/妙寿/法界/平等/南都大仏師/宗印/弁蔵/施主/善賢」
玉眼留木墨書「南都[ ]」「中井大和守」
牀座表面墨書「塗師/奉竒進/漆屋/三右衛門」
同裏面墨書「奉寄進/弘法大師/南都瓦竃/法壽庵/大阿闍梨生安」
畳座天板墨書「奉修補/弘法大師尊像/工師京都山本茂祐/施主生嶋氏/與九郎/繼子小右衛門/實子佐兵衛/于昢(時)/嘉永三〈庚/戊(ママ)〉年三月廿一日/撥遣開眼 兼住後見/忍辱山知恩院/大阿闍黎法印快助」
(/は改行、[ ]は判読不能文字、〈 〉は割書を表す)
※頭部内面墨書と玉眼留木墨書の銘文は昭和30年および同38年の太田古朴氏の報告に拠るものの、なお同氏旧蔵写真および諸氏の論考も参照した。
備考 桃山時代