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奈良を訪れる人にとって、アイドルとも言える奈良の鹿。奈良公園には鹿と一緒に記念写真を撮ろうと夢中になる人の姿を見かけます。特に5~6月は鹿の出産期で、かわいらしい子鹿を目にすることも多くなります。
今回のならまち歳時記は、この子鹿誕生の季節に合わせて、奈良の鹿と奈良町の人との関わりに注目します。中世から春日社の「神鹿(しんろく)」として大切に保護されてきた鹿と、奈良町の人々はどのように共に暮らしてきたのかということについて、江戸時代から現代の記録、絵図などで紹介します。
奈良奉行所町代日記(ならぶぎょうしょちょうだいにっき)
個人蔵・寄託史料
(奈良市指定文化財)
奈良奉行所に詰めていた町代(奈良町の町政事務を担当する町役人)の職務日誌です。寛文9年(1699)5月3日、奈良町の西端にある細川町で13軒の屋敷が火事で焼け、奈良奉行から細川町の人々へ、火事の焼け跡に鹿が入り込み、近所の畑の麦などを食べて被害が出ないよう、垣でふさぐように命じたことが記されています。
井上町町中年代記 四番
井上町有・寄託史料
(奈良市指定文化財)
井上町の町役人によって書き継がれてきた町の記録です。
享和2年(1802)9月18日の記事に、犬に追われてケガをした子鹿が町内に迷いこんできたので、保護するため「鹿守(しかもり)」(病気やケガをした鹿の保護をする人)に連絡をしたことが書かれています。
萬大帳 一番
東向北町有・寄託史料
(奈良市指定文化財)
東向北町の町役人によって書き継がれてきた町の記録です。
江戸時代も鹿は、町の中を自由に歩き回っていましたが、その鹿が町の中で死んだ場合には、町から興福寺に届け出て、確かに病死であることを確認してもらい、清め銭というお金を町から興福寺に支払う決まりになっていました。
延宝3年(1675)3月24日、町内で鹿が死んだので、町から清め銭700文を支払ったという、萬大帳の中で鹿について書かれた一番古い記録の部分を展示します。
ならめいしょゑづ
個人蔵
明治6年(1873)頃
東大寺境内で奈良みやげの絵図や名所案内記などを販売した絵図屋庄八が印刷した絵図です。江戸から明治時代にかけて、何度も版を重ねています。
この明治6年頃の絵図には、春日野につくられた「鹿ゑん」に鹿が集められている様子が描かれています。
江戸時代の「ならめいしょゑづ」も展示いたします。その違いを探してみてください。
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