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史料保存館の館蔵史料の幾つかをご紹介します。ホームページでご覧になる以外のご利用(書籍への掲載や原本の閲覧など)を希望される場合は、別途申請が必要になります。詳しくは【史料保存館】史資料等利用/掲載/館外貸出許可申請書をご参照ください。
奈良県で最初の新聞です。奈良市油留木町の金澤昇平と東向北町の高橋平蔵が日新報社(のち日新社)を設立して発行しました。木版刷り16頁の小冊子で、月3回発行、1部の定価が200文でした。この新聞は県の公報のような性格をもっており、毎号2000部は県に納めて市町村に配布、2000部は主に村々の戸長クラスが購読したといいます。
木版の奈良の案内図です。東を上にして町家を黒く塗り、興福寺・東大寺の諸院、諸坊は符号で図中に示し、上下の一覧と対応しています。東は忍辱山、南東は鹿野園、南西は郡山・矢田寺、西は富雄・霊山寺、北西は秋篠寺、北は奈良坂までを描いています。宝永6年(1709)の東大寺大仏殿落慶供養の見物客を見こして作られたと考えられます。
手書きの町絵図です。町名や寺社名、川や池、水路、町木戸の位置などが細かく描きこまれています。町の周囲は柵で囲まれ、町場と農村域が分けられています。これは「鹿垣(ししがき)」といい、鹿の害から農作物を守るために作られたものです。
奈良の絵図屋庄八が作成した版図です。奈良奉行所を中心に東を上に描き、町名、社寺、川、池などが描かれています。また、吉野・高野・京都・大坂・河内など東西南北の里程を付し、奈良八景、南都七大寺、社寺の年中行事・祭礼などについても紹介している名所旧跡案内の絵図です。
元興寺五重塔(現在の華厳宗元興寺)の相輪部分の部材を、春日画所(かすがえどころ)の原在照が描いた紙本墨摺の絵です。当時五重塔は修理中で、九輪なども下ろされており、その際に描かれたものと思われます。部品の絵にはその名前と寸法も書かれています。水煙他扇面図の右端に「元興寺五重大塔高廿四丈/聖徳太子御建立九輪古銅之図」と画題、左端に「弘化二巳春/春日画所近江介在照写」と絵師の名前などが書かれています。五重塔は安政6年(1859)、毘沙門町に起こった火事で焼失しています。
絵図屋庄八が江戸時代から明治期まで版を重ねて出し続けた名所絵図です。主な名所を網羅的に描いた概念図(イメージ図)です。元文3年(1738)に完成した大仏殿回廊とともに享保2年(1717)に焼失した興福寺の南大門が描かれていて一種の復古図にもなっています。奈良の町の中を自由に歩き回っていた鹿も絵図のそこここに描かれています。
明治から昭和まで版を重ねて発行された、多色刷りの奈良名所絵図です。寺社仏閣や名所旧跡を始め、官公庁や学校、病院、劇場や猿沢池周辺の旅館の名前などが細かく書き込まれています。右下には大仏が描かれ、大仏と大仏殿、梵鐘の寸法が蓮弁の中に書かれています。筒井梅吉、筒井正一は江戸時代の絵図屋庄八と同じ版元です。
京都、大阪、奈良、上野から月ヶ瀬への道を鳥瞰図で描いた刷り物です。江戸後期には梅の名所として知られるようになり、多くの文人墨客が観梅に訪れました。
折本になっている刷り物です。月ヶ瀬の岡本八谷が発行した案内図で、奇岩の点在する渓谷を流れる五月川、岩山をおおう梅林、山あいの民家も描いています。左上に文人たちの詩文を配し、右下には梅渓実測図が入っています。
大仏殿や春日社、猿沢池など現在の奈良市内の名所のほか、法隆寺や長谷寺など大和全体の名所を描いた錦絵風の風景図12枚です。明治23年(1890)に創建された橿原神宮のほかは、古くから名所旧跡とされている場所が描かれています。
奈良市街を南西から描いた地図です。いろいろな施設や商店が描かれており、昭和10年代の奈良の町の様子がわかります。主な建物にはその名称を記し、その他の所は記号があり、地図下部の索引で引けるようになっています。
奈良町の商家が制作した引札24枚です。引札とは、商家が店や商品の広告のために、店名と扱う品名とそこに関連する絵柄などを印刷し、客に配布した広告印刷物です。江戸後期より制作され、明治時代以降には、売出し、開店、催事の季節に手配りや郵送、新聞・雑誌の付録として配布され、顧客と商家を結ぶ大切な広告媒体でした。
小間物とは化粧品や装身具などのことです。他に手遊び(おもちゃ)、ランプなどを扱っていました。
小間物店の引札です。義経の八双飛と、めでたい日の出と鶴を組み合わせた絵柄です。
今小路町にあった「くしや」という屋号の店で、小間物の卸しや小売をしていました。絵柄は歌をしたためる女官のようです。
3と同じ「くしや」の引札です。美人の背景に日の出と駅のホームや蒸気船が描かれています。
悉皆とは衣類・布地の染物、洗い張りなどをする店のことです。大きな日の出と牛が描かれており、丑年の引札かもしれません。
5と同じ染物悉皆所の引札です。寅年の引札でしょうか、滝を飛び越える金色の虎が描かれています。虎には空摺(からずり・エンボス加工)が施されています。
荒物とはほうきやちりとり、ざるなどの家庭用の雑貨類のことです。「石灰いろいろ」とも書かれています。絵柄は荒物屋の店先の様子が描かれています。
「万荒物商 石灰・セメント販売」と書かれています。セメントは明治になってから製造・使用されるようになりました。絵柄は雪の降る中に立つ女性が美しく描かれ、仕上げに白い絵の具を吹き付けてあります。
鮮魚店の引札です。松に鶴、初日の出といったおめでたい絵柄が描かれています。
履物店の引札です。七福神が楽し気に宴をしている背景に、富士山と初日の出が描かれた商売繁盛を祈念する絵柄です。
煙草と青物を扱う店の引札です。絵柄は、松竹梅に鶴と日の出という長寿や招福を祈念するものです。
履物店の引札です。東山道名産物図とあり、近江堅田、信濃善光寺などの名所、上州糸、会津塗などの名産品が描かれています。左の余白部分から、明治30年(1897)大阪市東区北久宝寺町で制作販売されたものであることがわかります。
豆腐店、人力帳場(人力車の勘定場)の引札です。東京西京大阪間鉄道汽船航路略図が描かれています。絵の上部には東京と大阪近郊の鉄道路線の略図も描かれています。
和洋の砂糖や菓子類を扱う店の引札です。絵柄は子、丑、寅をはじめとする十二支を手札に描いたものです。
14と同じ店の引札です。松と日の出が描かれています。松は古来より長寿や節操を象徴するものとして尊ばれてきました。
「紙帳面筆墨砂糖并ニ表具用品ガラス摺附木卸商」と数多くの取扱商品と店先の様子が描かれています。扱う商品の中の「摺附木(すりつけぎ)」は明治時代のマッチのことです。
染物店の引札です。絵柄のない、文字のみのシンプルなデザインです。
塩魚・乾物店の引札です。富士山、松、鶴とめでたい絵柄で、船に乗る漁師は藻を刈り採っています。「藻を刈る」は「儲かる」とかけています。
18と同じ店の引札です。塩魚、乾物類ほかに油類も扱っていました。恵比寿様が自分の何十倍もある巨大な鯛を釣り上げためでたい絵柄です。
時計や油を扱っていた店の引札です。いろいろな種類の油やランプ、油差しが描かれています。左側には明治35年(1902)の暦が印刷されています。
小間物店の引札です。絵柄は「壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)」阿古屋琴責の場面がモチーフのようです。右上には「初春に 阿古屋 ここやで よき琴をきく」とあります。
21と同じ小間物店の引札です。手前に豪華な熊手を持ち初春を祝う様子、背景には初荷でにぎわう様子が描かれています。
醤油醸造元の引札です。樽に醤油を詰める恵比寿と大黒の背景に、煙を吐き出す工場と電信柱、電線が描かれています。
履物店の引札です。美人2人が持つ大正6年(1917)の暦に、毎度のお引き立てへのお礼と相変わらずのご愛顧を願う挨拶が書かれています。
明治初めの奈良町の名所・豪商・職人・学校などをイラストで紹介した案内記です。奈良晒・蚊帳・製墨・製筆など奈良の代表的な名産品をはじめ、旅館、呉服業、薬種、文明開化を反映して時計、舶来物などの商売を紹介しています。
商売の種類ごとなどにまとめて、順番に公開していく予定です。
「大和名勝豪商案内記」の中でも製墨関連は一番多く紹介されています。見開き頁全体に店表の様子が大きく描かれた店が6軒あり、製墨業が盛んだった様子がうかがわれます。内国勧業博覧会や、奈良博覧会での受賞をアピールしている店もあります。墨に関連する商売として、墨型製造、筆製造の店も一緒に紹介します。
アルビューメン・プリント(鶏卵紙)に着色した写真で、辷り坂と呼ばれる坂道から西方向に三条通を撮影しています。明治中頃に来日した外国人向けに日本の名所や風俗を撮影した同様の着色写真が販売されていることから、この写真もその頃のものと考えられます。当時の三条通の様子がよくわかります。
交通機関の発展により増加した観光客のために、市内の名勝旧跡や行事などを記録した写真集です。奈良市街の全景や社寺や名所など50点が掲載されています。
現JR京終駅付近で、京終地方西側町の角から南方面を望んだ写真です。現在は集合住宅などが建っています。
現JR京終駅の構内を東から撮影しています。右端に駅舎が小さく写っています。
大正7年(1918)に現JR京終駅近くに開設されました。昭和52年(1977)に奈良県中央卸売市場が大和郡山市筒井町に開設されるまでにぎわっていました。
索道は貨物運送に利用されたリフトで、奈良安全索道株式会社が、大正8年(1919)から昭和27年(1952)まで現JR京終駅近くの肘塚町から都祁小倉町を結んでいました。大和高原の特産物であった凍豆腐の原料や製品、木材、肥料、石炭などの輸送を行いました。