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「古都奈良の文化財」が世界遺産登録されたのは、今から20年前の1998年12月。90年代当時、世界遺産の保護の考え方は、西洋の石造建築物を中心に考えたものであり、木造建築が主である国など世界的に広げるには限界が訪れていました。
そこで94年に奈良市で国際会議「奈良会議※」が開催され、世界遺産の保護は大きな転換点を迎えます。今月号では世界遺産登録の価値や秘話に迫ります。
※正式名称「世界文化遺産奈良コンファレンス」。本特集では通称である「奈良会議」を使用
世界遺産はユネスコが認める「顕著な普遍的価値」を持つ不動産が対象です。11月1日現在、世界で1092件、うち日本では22件が登録されています。不動産が対象のため、動産である仏像等は対象にはなりませんが、東大寺の大仏は移動困難なことから、世界遺産に含まれています。
なお、民族固有の文化を守るためには無形の文化遺産の保護も重要であることから、2003年に「無形文化遺産」が創設されましたが、世界遺産とは別個のもので、ユネスコの事務局も異なります。
二度の世界大戦により、欧州では多くの文化財が破壊されたことで、戦後になって保護の機運が高まり、72年にユネスコ総会で世界遺産条約が採択されました。日本はその20年後の92年、世界で125番目に条約を批准します。日本の批准がこの時期になった理由として、文化遺産を保護する文化・風土がすでにあったことが挙げられます。明治時代に「古社寺保存法」が、戦後すぐに「文化財保護法」が制定されており、あえて批准する意味はなかったのです。
しかし、80年代後半になり、世界遺産条約にある「自国と世界の文化遺産の保護」のために、日本に世界の文化財保護に貢献して欲しいという要望が寄せられ、これに応える形で批准することになりました。
つまり、日本にとっての世界遺産登録は、文化財を権威づけるためではなく、「世界の文化遺産保護に参加し、国際協力を行っていく」という意味合いが強かったのです。
世界遺産登録の審査項目の一つに「オーセンティシティ(真正性)」、つまり「本物であるか」というものがあります。
90年代前半までこの「本物であるか」という基準は、登録対象が保護されることになったときの状態のままで残っているかが重要とされていました。これは西洋の文化財が、耐久性が高く劣化に強い石で造られていたことを基にした考え方です。
一方、アジアやアフリカ等の建築物は劣化しやすい、木や土といった素材で造られてきました。これらの素材を使った建築物は文化財として保護の対象となった以降も、定期的に修理が必要なため、創建当時の外観であっても、素材が「本物」ではないという見方がされていました。
しかし、この「真正性」の考え方に限界が訪れます。92年に多くの木造文化財を持つ日本が世界遺産条約を批准。93年には法隆寺と姫路城が日本で初めて世界遺産登録されたのです。この2つの文化財は修理の記録が詳細に残っていたため「本物」がどこの部分にあるか明確でした。しかし、日本が行ってきた木造建築の修理について、依然として国際社会からは十分な理解が得られていない状況にありました。このままでは日本、ひいては世界の文化財が「真正性」を満たさず、登録ができないという問題に直面しました。
そこで、94年に「真正性」の考え方を見直すために「奈良会議」が開催されることになります。
「奈良会議」には、ユネスコ世界遺産センター所長や、アジア、南北アメリカ、欧州、アフリカ等28カ国から著名な専門家等45人が参加しました。
当時、日本の木造建築物は伊勢神宮の式年遷宮が世界的に有名で、日本の文化財建造物は修理の度に新しい素材に変えられているという誤った認識が広まっていました。
そこで、参加者に法隆寺や春日大社の修理作業現場、平城宮跡を見学してもらうことで、日本の文化財保護の実際について理解を深めてもらいました。
「奈良会議」では6日間、専門家による発表と議論が行われ、会議の成果として「オーセンティシティに関する奈良文書」が採択されました。
「奈良文書」には、「真正性」を評価する際にそれぞれの文化的背景を考慮すべきであると記載されました。木造建築などで、建材が新しい物に取り替えられても「本物であるかどうか」は、明治以降培われてきた日本における文化財修理の考え方をふまえて評価する必要があるということになります。つまり、奈良の文化財をきっかけに、西洋中心の考え方が、世界の文化の多様性を認める考え方に改められたのです。
それから20年後の14年、奈良の地で「奈良文書20周年記念会合」が開催され、文化財保護のあり方を、インターネットの出現等、時代の変化に合った形にするために「奈良+20」が採択されました。
西洋における文化遺産保護の基本原則が確立されたのは、64年に制定された「ヴェニス憲章」です。30年も続いた原則を見直すのに、世界遺産条約を批准したばかりの日本の奈良が選ばれたのはなぜでしょうか。
その理由は奈良には日本以外には1棟しかない8世紀以前の木造建築が20数棟あり、世界に類を見ない文化財の宝庫だったからです。また、それらの建築物は、劣化した部分は修理の際に取り替えるなど、西洋とは異なった文化財保護の手法が取られていました。石造り以外の建造物が「本物かどうか」を議論するために、実物を見ながら議論できる奈良は、国際基準の検討には最適の地だったのです。
寺社がある風景が当たり前となっている奈良。
しかし、各寺社は創建から現在に至るまで、焼失や廃寺など、多くの苦難を乗り越えてきました。ここでは、その代表的な出来事を紹介します。
784年に、都が京都に移ってから、奈良は寺社の町となりました。源平の合戦が起こると興福寺と東大寺は平家によって焼き討ちに遭いますが、鎌倉時代には両寺ともに復興を果たします。
戦国時代には、東大寺大仏殿や薬師寺の西塔等が戦乱で焼失しますが、東大寺大仏殿は江戸時代中期に再建、薬師寺は現代に復興を果たしつつあります。この他にも各寺社は災害等で伽藍の主要な施設が失われたりと苦難に見舞われますが、修理や再建を経て現在の形となっていきます。
明治時代には興福寺が最大の危機を迎えます。1868年の仏教と神道を分ける「神仏分離令」を機に起こった仏教施設の破壊活動「廃仏棄釈」により、一時廃寺にまで追い込まれてしまうのです。71年には寺領が上知令で没収、80年には境内は奈良公園の一部となってしまいます。
しかし、翌81年にようやく行き過ぎた廃仏棄釈が反省され、再興が許されます。97年に「古社寺保存法」が公布されると、徐々に修理や整備が進み現在に至っています。
京都に都が移り、平城京の跡は田畑となり、平城京は「ここにあった」と言われる伝承のみの存在になりました。江戸時代末期になると、藤堂藩古市奉行所に勤めていた北浦定政が平城京跡を測量し、正確な地割りを復元します。
明治時代に入ると、棚田嘉十郎氏によって保存運動が起きます。棚田氏は奈良公園などの植木職人でしたが、平城宮跡が農耕地となっていたことを嘆き、保存運動に身を投じていきます。地元佐紀の人たちの協力もあり、運動は軌道に乗り、1910年には国からの下賜金を受け、「平城奠都千二百年祭」を開催、成功に導きます。13年には「奈良大極殿阯保存会」を設立。21年に棚田氏は亡くなりますが、保存会が取得した土地が国に寄付され、22年に平城宮跡は史跡指定を受け、国の保護を受けることになります。
55年には国による計画的な発掘調査が始まります。調査では奈良時代の生活ぶりがわかる重要な資料「木簡」が多数出土したり、それまで四角形と考えられていた平城宮跡の形が東に一部分せり出していることが分かるなど、成果が上がります。
しかし、そんな中60年代には平城宮跡の南西部に民間建築物の建設計画や、宮跡東部分を直進し分断する国道24号の建設計画など、宮跡保存の危機が度々訪れます。その度に市民から宮跡保存の声が上がり、全国的な反対運動へと発展していきます。その結果、建築物の建設計画は撤回、国道24号についても平城宮跡を東へ迂回する現在のルートとなり、計画地は史跡に追加指定されました。
66年に国会で「古都保存法」が制定されたことで、平城宮跡とその周辺は開発が制限される「歴史的風土保存区域」に指定され、現在の形が守られるようになりました。
奈良市では、先人が守ってきた文化遺産を次世代に継承していくため、独自の教育プログラム「世界遺産学習」を2001年から行っています。対象は市立幼稚園から市立一条高等学校までの児童・生徒たち。
代表的なカリキュラムは市立小学校の5年生が行う現地学習で、市内の世界遺産をバスで巡り、調べたことについて発表を行います。
さらに、世界遺産以外にも、それぞれの地域の良さも学びます。例えば、平城小学校3年生の授業では、校区内を探検し、興味をもった古墳について調べ、橿原考古学研究所職員に発表し講評を受けます。その過程で児童は古墳が地域の人々によってどう受け継がれてきたのかを学び、地域への愛情を育むのです。
09年、奈良市の呼びかけで「世界遺産学習連絡協議会」が発足。現在は世界遺産学習を実践している全国29の自治体等が参加。教員や保護者が集まり、情報交換や交流を行っています。市の特色ある教育理念は全国に広まり、各地で地域を愛する心の育成が進んでいます。
20年前の「古都奈良の文化財」の世界遺産登録への推薦は、国・県・市を挙げた大きな事業で、市は専門部署「世界遺産登録推進室」を立ち上げ、取り組んでいました。
そこで係長として現場を指揮し、現在はユネスコ・アジア文化センター文化遺産保護協力事務所で活躍している中井公さんに当時の話を聞きました。
世界遺産登録は、性質が同じものは登録できません。「古都奈良の文化財」は日本で7番目の登録になりましたが、推薦当時すでに「古都京都の文化財」が登録されており、私達は違いを明確に示す必要がありました。
奈良と京都はまず時代が違います。奈良は平城京時代の文化財、京都は平安京に遷都されてから以降首都であった千年の間の文化財です。
さらに、両者は文化財の性質も違います。「古都奈良の文化財」は、世界遺産のカテゴリーでは、「文化遺産」になります。「文化遺産」は、その中でさらに「記念工作物」・「建造物群」・「遺跡」の3種類に分かれます。加えて、ガイドラインには、自然を利用してつくりだした風景を「文化的景観」とするという概念があり、「遺跡」の種類の中に含めています。
先に登録されていた「古都京都の文化財」等の5つは「建造物群」、「広島平和記念碑(原爆ドーム)」は「記念工作物」として「単一の種別」になっていました。
対して「古都奈良の文化財」は、寺社の建造物が「建造物群」、平城宮跡が「遺跡」、春日大社境内と春日山原始林が一体のものとして「文化的景観」に登録されています。寺社の建造物群と宮都の遺跡が一緒に残っていたことが日本だけなく、世界に類例のない価値であり、世界遺産登録を可能にしました。
「遺跡」が含まれていることも「古都奈良の文化財」の大きな特徴ですが、最近では平城京時代以前の遺跡「富雄丸山古墳」が国内最大の円墳であることが判明する等、奈良は遺跡の宝庫です。「富雄丸山古墳」の発掘体験イベントも開催されていますし、「本物」に身近に触れられるのも奈良の魅力だと思います。
本特集への問合せ…「世界遺産学習」:学校教育課(電話番号:0742-34-5498)、その他:文化財課(電話番号:0742-34-5369)