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奈良市とオーストラリアの首都キャンベラは今年10月に姉妹都市提携25周年を迎えます。
今月号では、両市の姉妹都市提携に秘められた歴史や交流の意義・重要性を紹介します。
1940年代、第二次世界大戦で日本とオーストラリア(以下、豪州)は敵国同士でした。日本は豪州の2都市に襲撃を行う等激しく戦った結果、戦後、豪州内には反日感情が渦巻いていました。
そんな中、日豪和解に生涯をささげ、約40年間を日本で活動したトニ・グリン神父がいました。同氏の献身的な両国間の和解・友好に向けての活動は奈良市内でも共感を生み、市民団体である奈良日豪協会が発足しました。
70年代には奈良日豪協会とキャンベラの豪日協会が中心となり交流が始まります。その後、両市間の友好交流の機運が高まった93年10月26日に正式に姉妹都市提携、現在に至るまで民間交流は続くことになります。
キャンベラは豪州の首都でACT政府が管轄しています。名称には先住民アボリジニの言葉で「出会いの場」という意味があります。
キャンベラはかつては目立たない地方都市でしたが、1901年に大きな転機が訪れます。豪州がイギリスから事実上の独立。当時の豪州は大都市のメルボルンとシドニーの間で、首都の座を巡って論争の中にあり、そこで出された「両都市の中間に首都を建設すべき」という意見から、11年にキャンベラが首都に選ばれ、「計画都市」として建設されることになりました。
他の都市と異なり、十分な都市機能が発揮できるよう綿密な計画により建設される「計画都市」であることがキャンベラの大きな特徴です。都市デザインは国際コンペが開催され、米国人の建築家、ウォルター・バーリー・グリフィンの計画が採用されました。その後、建設は遅れていきますが、第二次世界大戦後、ロバート・メンジー首相の指揮のもと建設が進みました。
キャンベラには、ACT政府、州政府の機関が集約しており、連邦議会議事堂や省庁、最高裁判所が集まっています。また、国立図書館、美術館、教育面ではオーストラリア国立大学とキャンベラ大学等があります。
キャンベラの移動手段は、自家用車が主で公共交通機関はバスのみです。それらに加えて、現在は近代型路面電車の導入が進んでいます。キャンベラの北部と中心部を結ぶ全長12キロメートル、13駅からなり、市民の移動手段としてだけでなく、観光活性化の一翼を担うことが期待されています。日本からも鉄道事業を展開している三菱商事などが参加し、19年の稼働に向け推し進めています。
ACT内や郊外には多くのワイナリーがあり、小規模ながらも、乾燥した台地と気候を生かし良質のワインが作られています。キャンベラの住民は地元のワインを愛しており、消費も盛んです。
本市でも姉妹都市提携2年後の95年にキャンベラワインフェアを開催し、キャンベラのワインの魅力を紹介しました。
Canberra Nara Peace Park
1996年、キャンベラ奈良姉妹都市委員会が姉妹都市提携を象徴するものを作るためバーリー・グリフィン湖畔に「キャンベラ奈良平和公園」の建設を提案しました。
しかし、当時の豪州内では大戦における反日感情が癒え切らず、RSL(退役軍人会)を中心に反対運動が起こり、「平和(peace)」の2文字を入れることに反発しました。99年に、起工式が行われるものの「キャンベラ奈良公園」としてスタートを切る結果となりました。
その後、二国間の関係性は良好になり、2010年のキャンベラ奈良キャンドルフェスティバル開催と同時に「キャンベラ奈良平和公園」へと改名されました。キャンドルフェスティバルでは、本市が寄贈した「なら燈花会」の灯りが使われています。
本市とキャンベラの姉妹都市提携に大きく貢献した人物にトニ・グリン神父(以下、グリン神父)がいます。
グリン神父は第二次世界大戦でオーストラリアに生まれた日本への憎しみを許し、和解の働きに半生を捧げたカトリック教会の神父です。
グリン神父の生涯とともに、姉妹都市提携の経緯を振り返ります。
オーストラリアのリズモアで8人兄弟の7番目の子として生まれる。敬虔なローマカトリックの家庭で過ごし、神学校で学業を重ね、51年司祭に叙階。
太平洋戦争開戦の翌年である1942年、16歳のグリン青年はシドニーのセントジョセフカレッジに入学し寄宿生活を送っていました。しかし同年、日本帝国軍の侵攻により英国植民地であったシンガポールが陥落。豪州本国にも戦火が伸びてくるのではないかという恐怖が広がりました。結果、グリン神父は一時学業を中座して故郷リズモアに帰ることになりました。
同年、日本軍はついに豪州にも侵攻。ダーウィンを空爆、シドニーを特殊潜航艇で襲撃しました。また、東南アジアで捕虜にした豪州人をタイ・ミャンマー間をつなぐ泰緬鉄道の建設のために強制労働させる等、豪州での日本への憎しみは増していきました。
45年、グリン神父は神学校でライオネル・マースデン神父と出会います。
マースデン神父は泰麺鉄道の強制労働に使役させられた経験を持っていました。同鉄道の建設は劣悪な環境で行われ、大量の死者を出したことで「死の鉄道」と呼ばれていました。マースデン神父はその経験から一時、激しく日本への憎悪の感情をいだいていましたが、敗戦によりさまざまな問題を抱える日本に「死の鉄道」ではなく「愛の鉄道」を築き和解をめざしたいと活動をしていました。
グリン神父はその活動に感銘を受け自身の生涯を日豪和解に捧げることを決意し、53年に奈良へ渡ります。
グリン神父が取り組んだ活動の中で代表的なものに、大戦で豪州人が得た日本将兵の刀を日本に返還するという「ゆるしの刀」があります。「刀をいつまでも所有していると憎悪の感情が消えることがない。日豪和解のために刀を返してくれないか」と彼は豪州中を駆けずり回りました。当時、豪州では退役軍人の会などが先陣となり、日本への糾弾を行っていましたが、根気強く活動を続けた結果、多くの日本刀が集まりました。それらの刀は彼の手で日本の家族の元に返還され、持ち主の分からないものは靖国神社へ奉納されることとなり、当時日本国内でも大きな話題となりました。
戦時中に日本人捕虜収容所があったカウラという町があります。そこでは、44年に日本人捕虜が集団脱走し、日本人231人、豪州人4人が死亡するという事件がありました。日本人の死者は豪州人の手によってカウラに埋葬されました。ある時、墓地のことを知ったグリン神父は清掃活動を開始します。やがてカウラの人々からも清掃奉仕に参加する人が増えていき、62年にはついに豪州政府が日本政府に墓地を割譲。日本により墓地は整備され生まれ変わりました。
さらに86年、グリン神父は奈良の僧侶12人とともに墓地を訪れ、キリスト教と仏教合同の慰霊祭を行い、死者の鎮魂を行いました。
グリン神父の日豪和解の活動は奈良市内でも共感を生み、70年代には民間団体の奈良日豪協会が生まれました。また、キャンベラでも豪日協会ができ、両協会が日豪親善を軸に交流し信頼関係が醸成されていきました。そして93年、奈良市とキャンベラはついに姉妹都市関係を締結することになります。
その翌年、日豪和解に半生を捧げて推し進めたグリン神父はガンのため死去しました。彼の会葬には5千人を超える人が参列し、彼の死を追悼しました。
1942年奈良市生まれ。
1984年に第二電電株式会社(現在のKDDI)を稲盛和夫氏らと共同創業。99年イー・アクセス株式会社を創業。2005年イー・モバイル株式会社を設立。現在、株式会社レノバ代表取締役会長。
私が洗礼を受けたのは京都大学に入る前のこと。たまたま足を向けたカトリック奈良教会にトニ・グリンという神父がいました。(中略)ある時こんな光景を目にしました。誰もいなくなった教会をのぞくと、静寂の中で神父がたった一人で深い祈りを捧げています。カトリックの神父は妻を持たず、異国の地に赴いて一人で暮らさなければならない。神だけを信仰し、異邦の地で生きていくことの孤独や過酷さを、祈る神父の後ろ姿から、私はひしひしと感じ取ったのです。(中略)神父に最後にお会いしたのは1992年。奈良に帰郷した時でした。ニコニコとしながら「センボン、私はガンになっちゃったよ」とおっしゃいました。ガンはキリスト教の神父や修道女にとって、もっとも祝福される病気、とも言われることがあります。なぜならば、ガンは心筋梗塞のように発症と同時に急死する、といったことはなく、一般に余命がある程度予告される病気です。その残されたれた貴重な時間に自己のたどってきた人生でのあやまちを見つめ、罪深き自分を反省し、償って、そして亡くなる。それができる恵まれた病気という意味です。
神父はガンになった後も精力的に活動を続け、亡くなるその日まで、一度も祖国オーストラリアに戻ろうとはされませんでした。(中略)私が創業から、思い出したくないような苦難を何とか乗り越えられてきたのは、神父がただ一人で祈る「後ろ姿」が目に焼き付いていたからだと言ってもいいでしょう。(「あなたは人生をどう歩むか~日本を変えた起業家からの「メッセージ」」千本倖生著より抜粋)
10月はキャンベラからコンサートバンドとサイエンスサーカスが来日!
みなさんもキャンベラの空気を感じてください
とき 10月5日(金曜日)午後6時
ところ なら100年会館
大ホール(三条宮前町)
キャンベラの高校生で構成されるACTシニアコンサートバンドのメンバーを迎え、一条高校吹奏楽部等と合同コンサートを開催します
入場自由♪
98年にキャンベラから音楽団体であるACTシニアコンサートバンドが来日した際、一条高等学校の吹奏楽部と合同でコンサートが開催されました。2年後には日本からもキャンベラを訪問。そこから定期的な交流が始まり、これまでに両校で計9回の訪問が行われました。
05年から研修旅行でキャンベラを訪問しており、現地には姉妹校もあります。「キャンベラ奈良キャンドルフェスティバル」にも毎年出演し、また日本の歴史・文化を学ぶために奈良を訪れる外国人留学生の受入も行う等、国際交流を盛んに行っています。
11年からキャンベラのハリソン校との交流を行っており、両校の生徒が定期的にお互いの国を訪問し合っています。今年9月には、ハリソン校から20人ほどが訪日し、一緒に授業を受けたり、日本文化の体験等の交流をしました。来年3月には同校からも生徒がハリソン校を訪問する予定です。
20年以上前からセントモニカ校とクリスマスカードや作品交換の交流を行っていました。98年には豪日協会会長が同校を訪問し交流が盛んになり、06年には同校児童がセントモニカ校を訪問、姉妹校調印を行いました。
訪問時にはセントモニカ小学校での授業やホームステイ、記念植樹等を行い、当時の外務省が「日豪交流記念事業」として認定しました。
とき 10月27日(土曜日)・28日(日曜日)午前10時~午後4時
ところ 市役所中央棟6階 正庁
入場自由!
オーストラリア国立科学技術センター(クエスタコン)が、大阪市立科学館とオーストラリア国立大学の協力を得て開催します。
30を超える科学体験型展示やサイエンスショーにより、幅広い年齢層の人が楽しめます。ぜひご来場ください。
スケジュール
※当日はパーク&ライド実施中です。できるだけ公共交通機関を利用してください。
本特集への問合せ 観光戦略課(電話番号:34-1965)