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奈良しみんだより平成30年10月号(テキスト版)2-6ページ 特集:姉妹都市提携25周年 日豪和解の懸け橋 奈良市とキャンベラの国際交流

更新日:2019年11月7日更新 印刷ページ表示

奈良市とキャンベラの国際交流

姉妹都市提携25周年 日豪和解の懸け橋

奈良市とオーストラリアの首都キャンベラは今年10月に姉妹都市提携25周年を迎えます。
今月号では、両市の姉妹都市提携に秘められた歴史や交流の意義・重要性を紹介します。

  • 今年3月、草賀純男駐オーストラリア日本国特命全権大使が姉妹都市提携25周年を記念して、本市を表敬訪問。草賀大使から仲川市長に、両市交流のさらなる発展の期待が伝えられた。
  • 一条高等学校の吹奏楽部とACTシニアコンサートバンド(音楽団体)の交流は20年続く代表的な交流。コンサートとホームステイを通して、生徒たちの国際交流が深まる。
  • 1993年10月26日、姉妹都市提携。本来であれば、首都キャンベラを自治するACT(Australian Capital Teritory)政府との調印になるが、市民の認知度の高さからキャンベラと調印することになった。

民間交流がつないだ姉妹都市提携

1940年代、第二次世界大戦で日本とオーストラリア(以下、豪州)は敵国同士でした。日本は豪州の2都市に襲撃を行う等激しく戦った結果、戦後、豪州内には反日感情が渦巻いていました。
そんな中、日豪和解に生涯をささげ、約40年間を日本で活動したトニ・グリン神父がいました。同氏の献身的な両国間の和解・友好に向けての活動は奈良市内でも共感を生み、市民団体である奈良日豪協会が発足しました。
70年代には奈良日豪協会とキャンベラの豪日協会が中心となり交流が始まります。その後、両市間の友好交流の機運が高まった93年10月26日に正式に姉妹都市提携、現在に至るまで民間交流は続くことになります。

オーストラリアの首都

キャンベラは豪州の首都でACT政府が管轄しています。名称には先住民アボリジニの言葉で「出会いの場」という意味があります。
キャンベラはかつては目立たない地方都市でしたが、1901年に大きな転機が訪れます。豪州がイギリスから事実上の独立。当時の豪州は大都市のメルボルンとシドニーの間で、首都の座を巡って論争の中にあり、そこで出された「両都市の中間に首都を建設すべき」という意見から、11年にキャンベラが首都に選ばれ、「計画都市」として建設されることになりました。

計画都市キャンベラ

他の都市と異なり、十分な都市機能が発揮できるよう綿密な計画により建設される「計画都市」であることがキャンベラの大きな特徴です。都市デザインは国際コンペが開催され、米国人の建築家、ウォルター・バーリー・グリフィンの計画が採用されました。その後、建設は遅れていきますが、第二次世界大戦後、ロバート・メンジー首相の指揮のもと建設が進みました。

官庁や文化施設が集中

キャンベラには、ACT政府、州政府の機関が集約しており、連邦議会議事堂や省庁、最高裁判所が集まっています。また、国立図書館、美術館、教育面ではオーストラリア国立大学とキャンベラ大学等があります。

日本企業もインフラ整備

キャンベラの移動手段は、自家用車が主で公共交通機関はバスのみです。それらに加えて、現在は近代型路面電車の導入が進んでいます。キャンベラの北部と中心部を結ぶ全長12キロメートル、13駅からなり、市民の移動手段としてだけでなく、観光活性化の一翼を担うことが期待されています。日本からも鉄道事業を展開している三菱商事などが参加し、19年の稼働に向け推し進めています。

隠れた人気商品「ワイン」

ACT内や郊外には多くのワイナリーがあり、小規模ながらも、乾燥した台地と気候を生かし良質のワインが作られています。キャンベラの住民は地元のワインを愛しており、消費も盛んです。
本市でも姉妹都市提携2年後の95年にキャンベラワインフェアを開催し、キャンベラのワインの魅力を紹介しました。

キャンベラについて知ろう!

  • 人口 約40万人
  • 面積 2358平方キロメートル(奈良市の8.5倍)
  • 気候 比較的乾燥しており、四季がはっきりと分かれる
  • 時差 +1時間
  • 政治 ACT(Australian Capital Teritory)政府が首都キャンベラの自治を行う
  • おもな名所 国会議事堂、国立美術館、オーストラリア戦争記念館

mini column 日豪和解の象徴 「キャンベラ奈良平和公園」

Canberra Nara Peace Park
1996年、キャンベラ奈良姉妹都市委員会が姉妹都市提携を象徴するものを作るためバーリー・グリフィン湖畔に「キャンベラ奈良平和公園」の建設を提案しました。
しかし、当時の豪州内では大戦における反日感情が癒え切らず、RSL(退役軍人会)を中心に反対運動が起こり、「平和(peace)」の2文字を入れることに反発しました。99年に、起工式が行われるものの「キャンベラ奈良公園」としてスタートを切る結果となりました。
その後、二国間の関係性は良好になり、2010年のキャンベラ奈良キャンドルフェスティバル開催と同時に「キャンベラ奈良平和公園」へと改名されました。キャンドルフェスティバルでは、本市が寄贈した「なら燈花会」の灯りが使われています。

姉妹都市提携と日豪和解に半生を捧げたトニ・グリン神父

本市とキャンベラの姉妹都市提携に大きく貢献した人物にトニ・グリン神父(以下、グリン神父)がいます。
グリン神父は第二次世界大戦でオーストラリアに生まれた日本への憎しみを許し、和解の働きに半生を捧げたカトリック教会の神父です。
グリン神父の生涯とともに、姉妹都市提携の経緯を振り返ります。

トニ・グリン神父(1926~1994)

オーストラリアのリズモアで8人兄弟の7番目の子として生まれる。敬虔なローマカトリックの家庭で過ごし、神学校で学業を重ね、51年司祭に叙階。

戦争の恐怖を体験

太平洋戦争開戦の翌年である1942年、16歳のグリン青年はシドニーのセントジョセフカレッジに入学し寄宿生活を送っていました。しかし同年、日本帝国軍の侵攻により英国植民地であったシンガポールが陥落。豪州本国にも戦火が伸びてくるのではないかという恐怖が広がりました。結果、グリン神父は一時学業を中座して故郷リズモアに帰ることになりました。

オーストラリアで燃え上がる反日感情

同年、日本軍はついに豪州にも侵攻。ダーウィンを空爆、シドニーを特殊潜航艇で襲撃しました。また、東南アジアで捕虜にした豪州人をタイ・ミャンマー間をつなぐ泰緬鉄道の建設のために強制労働させる等、豪州での日本への憎しみは増していきました。

「死」から「愛」へマースデン神父との出会い

45年、グリン神父は神学校でライオネル・マースデン神父と出会います。
マースデン神父は泰麺鉄道の強制労働に使役させられた経験を持っていました。同鉄道の建設は劣悪な環境で行われ、大量の死者を出したことで「死の鉄道」と呼ばれていました。マースデン神父はその経験から一時、激しく日本への憎悪の感情をいだいていましたが、敗戦によりさまざまな問題を抱える日本に「死の鉄道」ではなく「愛の鉄道」を築き和解をめざしたいと活動をしていました。
グリン神父はその活動に感銘を受け自身の生涯を日豪和解に捧げることを決意し、53年に奈良へ渡ります。

ゆるしの刀

グリン神父が取り組んだ活動の中で代表的なものに、大戦で豪州人が得た日本将兵の刀を日本に返還するという「ゆるしの刀」があります。「刀をいつまでも所有していると憎悪の感情が消えることがない。日豪和解のために刀を返してくれないか」と彼は豪州中を駆けずり回りました。当時、豪州では退役軍人の会などが先陣となり、日本への糾弾を行っていましたが、根気強く活動を続けた結果、多くの日本刀が集まりました。それらの刀は彼の手で日本の家族の元に返還され、持ち主の分からないものは靖国神社へ奉納されることとなり、当時日本国内でも大きな話題となりました。

カウラ日本人墓地

戦時中に日本人捕虜収容所があったカウラという町があります。そこでは、44年に日本人捕虜が集団脱走し、日本人231人、豪州人4人が死亡するという事件がありました。日本人の死者は豪州人の手によってカウラに埋葬されました。ある時、墓地のことを知ったグリン神父は清掃活動を開始します。やがてカウラの人々からも清掃奉仕に参加する人が増えていき、62年にはついに豪州政府が日本政府に墓地を割譲。日本により墓地は整備され生まれ変わりました。
さらに86年、グリン神父は奈良の僧侶12人とともに墓地を訪れ、キリスト教と仏教合同の慰霊祭を行い、死者の鎮魂を行いました。

姉妹都市提携へ

グリン神父の日豪和解の活動は奈良市内でも共感を生み、70年代には民間団体の奈良日豪協会が生まれました。また、キャンベラでも豪日協会ができ、両協会が日豪親善を軸に交流し信頼関係が醸成されていきました。そして93年、奈良市とキャンベラはついに姉妹都市関係を締結することになります。
その翌年、日豪和解に半生を捧げて推し進めたグリン神父はガンのため死去しました。彼の会葬には5千人を超える人が参列し、彼の死を追悼しました。

mini column 日本を代表する起業家にも影響を与えた、神父の「後ろ姿」

千本倖生

1942年奈良市生まれ。
1984年に第二電電株式会社(現在のKDDI)を稲盛和夫氏らと共同創業。99年イー・アクセス株式会社を創業。2005年イー・モバイル株式会社を設立。現在、株式会社レノバ代表取締役会長。

私が洗礼を受けたのは京都大学に入る前のこと。たまたま足を向けたカトリック奈良教会にトニ・グリンという神父がいました。(中略)ある時こんな光景を目にしました。誰もいなくなった教会をのぞくと、静寂の中で神父がたった一人で深い祈りを捧げています。カトリックの神父は妻を持たず、異国の地に赴いて一人で暮らさなければならない。神だけを信仰し、異邦の地で生きていくことの孤独や過酷さを、祈る神父の後ろ姿から、私はひしひしと感じ取ったのです。(中略)神父に最後にお会いしたのは1992年。奈良に帰郷した時でした。ニコニコとしながら「センボン、私はガンになっちゃったよ」とおっしゃいました。ガンはキリスト教の神父や修道女にとって、もっとも祝福される病気、とも言われることがあります。なぜならば、ガンは心筋梗塞のように発症と同時に急死する、といったことはなく、一般に余命がある程度予告される病気です。その残されたれた貴重な時間に自己のたどってきた人生でのあやまちを見つめ、罪深き自分を反省し、償って、そして亡くなる。それができる恵まれた病気という意味です。
神父はガンになった後も精力的に活動を続け、亡くなるその日まで、一度も祖国オーストラリアに戻ろうとはされませんでした。(中略)私が創業から、思い出したくないような苦難を何とか乗り越えられてきたのは、神父がただ一人で祈る「後ろ姿」が目に焼き付いていたからだと言ってもいいでしょう。(「あなたは人生をどう歩むか~日本を変えた起業家からの「メッセージ」」千本倖生著より抜粋)

姉妹都市提携の歩み

  • 1901年 オーストラリア連邦発足(ニュージーランドを除く)
  • 1908年 ヤスーキャンベラ地域の首都認定
  • 1911年 世界的な都市計画コンペを実施。アメリカ人建築家ウォルター・バーリー・グリフィンの計画が選ばれる
  • 1913年 「キャンベラ」と正式に命名される
  • 1926年 トニ・グリン誕生
  • 1941年 太平洋戦争(第二次世界大戦)勃発
  • 1942年 日本の特殊潜航艇3隻がシドニー湾襲撃。ダーウィンへ空爆。ライオネル・マースデン神父が泰麺鉄道の建設に使役される
  • 1944年 豪州カウラの日本人捕虜収容所で大脱走事件発生。同事件での死者を埋葬しカウラ日本人墓地の原形ができる
  • 1945年 第二次世界大戦終戦
  • 1952年 グリン神父 来日
  • 1953年 グリン神父が奈良カトリック教会主任司祭として赴任
  • 1957年 グリン神父が豪州内で軍刀(日本刀)の返還を呼びかける
  • 1962年 カウラ日本人墓地が日本政府に割譲され墓地が整備される
  • 1988年 ACT政府が誕生
  • 1992年 奈良日豪協会・キャンベラ豪日協会が姉妹協会協定を締結
  • 1993年 奈良市・キャンベラ・ACT(連邦首都地域)政府が姉妹都市提携
    キャンベラと一条高等学校で交換留学生の交流が始まる(以後長年にわたって交流が続く)
  • 1994年 グリン神父 死去(享年68歳)
  • 1995年 キャンベラから一条高等学校への教員の招致を行う(その後、日本からも教員を派遣)
  • 1997年 キャンベラ内で「キャンベラ奈良公園」の起工式が行われ、奈良市から市長らが出席。春日灯籠、雪見灯籠、万葉歌碑を贈る
  • 1998年 ACTシニアコンサートバンド指揮者が来寧(現在も交流が続く)
    姉妹都市提携5周年を記念し、一条高等学校吹奏楽部とACTシニアコンサートバンドが奈良市内でコンサートを開催
  • 1999年 「キャンベラ奈良公園」オープニング式典のため奈良市から市民団が訪豪
  • 2000年 一条高等学校吹奏楽部がキャンベラを訪問しコンサートを開催(以後、定期的に訪豪)
  • 2003年 キャンベラで山火事が起き、市民の募金を含む義援金を奈良市が贈る
    奈良市の市民団がキャンベラを訪問し、「なら燈花会」カップ千個を贈る(「キャンベラ奈良キャンドルフェスティバル」の始まり)
  • 2010年 奈良市内で姉妹都市ウィークを開催。ACT政府関係者が来寧
    第7回目のキャンベラ奈良キャンドルフェスティバルが開催され「キャンベラ奈良公園」は「キャンベラ奈良平和公園」へと改名される
  • 2013年 奈良市から訪問団を結成しキャンベラを訪問。市民交流に加え日本酒のブースを出展するなど民間事業者の交流も行う
  • 2017年 ACTチーフミニスターが来寧。産業・観光振興交流について話し合う
  • 2018年 姉妹都市提携25周年

あなたも国際交流!

10月はキャンベラからコンサートバンドとサイエンスサーカスが来日!
みなさんもキャンベラの空気を感じてください

姉妹都市提携25周年記念コンサート

とき 10月5日(金曜日)午後6時
ところ なら100年会館
大ホール(三条宮前町)
キャンベラの高校生で構成されるACTシニアコンサートバンドのメンバーを迎え、一条高校吹奏楽部等と合同コンサートを開催します
入場自由♪

コラム、若者がつなぐ交流

(1)一条高等学校

98年にキャンベラから音楽団体であるACTシニアコンサートバンドが来日した際、一条高等学校の吹奏楽部と合同でコンサートが開催されました。2年後には日本からもキャンベラを訪問。そこから定期的な交流が始まり、これまでに両校で計9回の訪問が行われました。

(2)奈良大学附属高等学校

05年から研修旅行でキャンベラを訪問しており、現地には姉妹校もあります。「キャンベラ奈良キャンドルフェスティバル」にも毎年出演し、また日本の歴史・文化を学ぶために奈良を訪れる外国人留学生の受入も行う等、国際交流を盛んに行っています。

(3)富雄第三小中学校

11年からキャンベラのハリソン校との交流を行っており、両校の生徒が定期的にお互いの国を訪問し合っています。今年9月には、ハリソン校から20人ほどが訪日し、一緒に授業を受けたり、日本文化の体験等の交流をしました。来年3月には同校からも生徒がハリソン校を訪問する予定です。

(4)帝塚山小学校

20年以上前からセントモニカ校とクリスマスカードや作品交換の交流を行っていました。98年には豪日協会会長が同校を訪問し交流が盛んになり、06年には同校児童がセントモニカ校を訪問、姉妹校調印を行いました。
訪問時にはセントモニカ小学校での授業やホームステイ、記念植樹等を行い、当時の外務省が「日豪交流記念事業」として認定しました。

サイエンスサーカス Japanツアーin奈良

とき 10月27日(土曜日)・28日(日曜日)午前10時~午後4時
ところ 市役所中央棟6階 正庁
入場自由!
オーストラリア国立科学技術センター(クエスタコン)が、大阪市立科学館とオーストラリア国立大学の協力を得て開催します。
30を超える科学体験型展示やサイエンスショーにより、幅広い年齢層の人が楽しめます。ぜひご来場ください。

スケジュール

  • 10月27日土曜日
    • ところ 市役所
    • とき、内容
      • 午前11時~午前11時半、身の回りのものを使った科学ショー。ありふれた物でできる特別な科学を実演します
      • 午後0時~午後0時半、投げた人に戻ってくるように設計された道具、ブーメラン。なぜ戻ってくるのか、その秘密の答えを、飛行機や独楽を介して見つけ出します。
      • 午後2時~午後2時半、対話形式で、音と音楽の科学を探るショー。振動、共鳴、音波を含む科学的原理を定義し、実証します。
      • 午後3時~午後3時半、身の回りのものを使った科学ショー。ありふれた物でできる特別な科学を実演します
  • 10月28日日曜日
    • ところ 市役所
    • とき、内容
      • 午前11時~午前11時半、対話形式で、音と音楽の科学を探るショー。振動、共鳴、音波を含む科学的原理を定義し、実証します。
      • 午後0時~午後0時半、身の回りのものを使った科学ショー。ありふれた物でできる特別な科学を実演します
      • 午後2時~午後2時半、投げた人に戻ってくるように設計された道具、ブーメラン。なぜ戻ってくるのか、その秘密の答えを、飛行機や独楽を介して見つけ出します。
      • 午後3時~午後3時半、対話形式で、音と音楽の科学を探るショー。振動、共鳴、音波を含む科学的原理を定義し、実証します。

※当日はパーク&ライド実施中です。できるだけ公共交通機関を利用してください。

本特集への問合せ 観光戦略課(電話番号:34-1965)

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