ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 分類でさがす > 市政情報 > 広報活動 > しみんだより > 奈良しみんだより > 奈良しみんだより令和6年4月号(テキスト版)2-5ページ 特集:

本文

奈良しみんだより令和6年4月号(テキスト版)2-5ページ 特集:

更新日:2024年4月1日更新 印刷ページ表示

あふれる富雄丸山の謎、終わらないロマン。
速報 第7次調査、ついに棺あらわる

【問合せ】埋蔵文化財調査センター(電話番号:︎0742ー33ー1821)

 

富雄丸山古墳の軌跡

・平成29年 第一次調査…直径109メートルの国内最大の円墳と判明
・令和元年 第三次調査…墳頂部で、中国製の青銅鏡(しゃえんしんじゅう鏡)の破片を、発掘体験に参加する市民が発見
・令和4年 第六次調査…国内最古で最大の蛇行剣と、だりゅう文様がある盾形銅鏡が出土

巨大な蛇行剣や類を見ない盾形銅鏡等が出土し、話題となった富雄丸山古墳。今回の第七次調査では、古墳の北東部に張り出した「つくり出し」にある、粘土かくを調査し、極めて良好な保存状態の木棺が確認されました。ここには何が(誰が)眠っていたのか。これまでの調査を振り返りながら、新たな謎に迫ります。

調査成果
・粘土かくの構築方法が判明
・全長約5.6メートル・幅約64〜70センチメートルの木棺を発掘
・木棺内の一部が水銀朱で真っ赤に染まる
・木棺内から副葬品として鏡3面とたてぐし9個を発見

発掘区位置図…高さ約14メートル 直径109メートル

粘土槨

粘土かくとは、木棺を粘土で包み込んだ埋葬施設で、古墳時代の前期〜中期に見られます。今回の調査では、今まで明らかになっていなかった構築方法が、初めて判明しました。
▪構築方法
(1)古墳に墓穴を堀り、木棺の身(下部)が埋まる程度さらに掘る
(2)薄く粘土を敷いた後、木棺の身を置き、遺骸や埋葬品を納めて蓋を閉める
(3)30~40センチメートル位の粘土ブロックを2~3段、木棺の両端から中央に向かって積む
(4)その上に厚さ2~4センチメートルの粘土を被せ、棒状の工具で押し広げる

 

木棺

木棺とはその名の通り、木でできた棺のこと。木製のため時が経つと腐ってしまい、小さな断片しか残っていないことが多いのですが、今回は全体像が分かるくらいきれいな形で現存し、その構造が明らかになりました。

木製の棺はどうしてきれいな形で発掘されたの?
理由1 周辺の土の保水力が高かったため、雑菌が繁殖しにくく腐食を防いだ
理由2 木棺のそばにあった、盾形どうきょうに含まれる銅の成分が、雨水によって木棺に染み込み、腐食を防いだ

 

解説・用語説明

木棺の形:コウヤマキという針葉樹を縦に割り、くりぬいた、わりたけがた木棺。蓋・身・こぐち板はコウヤマキで、仕切板のみスギで作製。蓋は全体の3分の1が残存
なわかけ突起:石棺によく見られるこの突起。わりたけがた木棺では初めて確認されました
こぐち板・仕切板:共に片側(南西)のみ直立した形で発見。棺の両端を小口板で密封し、その内部空間が2枚の仕切板で3分割されていました

木棺内で発見された3つの謎。次のページで詳しく見ていきましょう
(謎1)木棺内が一部赤い(謎2)3枚に重なる鏡(謎3) 散らばる9個の櫛

 

木棺内が一部赤い謎

主室の底面(遺骸の頭部付近)に広がる謎の朱色。これは古墳時代に行われていた風習「せしゅ」によるものだと考えられます。当時、赤色は呪術的に神聖なもので、生命の象徴とされました。遺骸に水銀朱を塗ることで魂を守り、また防腐の効果も見込んでいたのではないかと言われています。
注目:この部分に、骨の成分すなわちリン(化学物質)の反応があり、遺骸が存在したことがうかがえます。

 

3枚に重なる鏡の謎

副室の南西端に3枚重ねて置かれていた青銅鏡。発掘者の顔が映るほど、鏡面がきれいに残っていました。どれも鏡面を上に向けているため、鏡背面の文様が確認できず、鏡式等は不明です(3月中の調査で、1枚ずつ取り上げ鏡式を確認)。
注目:一般的には遺骸の全周や顔周りに、魔除けとして置かれることが多い鏡。これが3枚重ねられて、遺骸から離れた場所に納められていたのはなぜなのか。専門家の間でも謎が深まっています。

3枚の青銅鏡の写真
上から順に1号鏡:直径21.5センチメートル、 2号鏡:直径19センチメートル 、3号鏡:直径19.8センチメートル

 

 棺内に散らばる9個の櫛

主室の南東端(遺骸の足元付近)からは漆塗りのたてぐしが9個出土。竹製のため、腐食が進み欠損部分も多いですが、内2個は全形をよく留めています。たてぐしは装身具として、また魔除けとして納められたと言われています。

たてぐしとは…竹を細かく割き、それらを折り曲げ、1つにまとめて作った櫛。男女ともに髪飾りに使用

どうして魔よけに櫛?

これには古事記の神話が関係しています。
昔イザナギノミコトが、亡くなった妻・イザナミノミコトに会うため黄泉の国へ。暗闇の中で妻と会い、火で照らすと、目の前にモノノケと化した妻が。驚いて逃げるイザナギが、モノノケに投げつけた物が「櫛」。ここから、櫛が魔除けにも使われていたことが推察されています。

 

コラム 古墳時代を振り返る

古墳時代は、前方後円墳が盛んに築造された3世紀半ば〜6世紀末頃。古墳を造るには、高度な技術や多くの労働力等が必要となったことから、ヤマト政権(政治連合)の権力の象徴とされました。
歴史上、当時の様子を知る手がかりが少なく、「空白の4世紀」「謎の4世紀」と言われる頃に作られたのが富雄丸山古墳。謎を解き明かす鍵が、今回の発見によって見つかるかもしれません。

古墳の種類…前方後円墳・方墳・円墳・帆立貝形古墳・前方後方墳

 

解明 比類ない副葬品に囲まれて眠る人物とは

「第1級の資料」として、今まで解明されていなかった粘土かくや木棺等の構造が明らかになった今回の調査。しかし同時に、謎も多く生まれました。長年調査に関わる専門家の1人であり、市埋蔵文化財調査センターの鐘方所長に、独自の見解をたずねました。

○インタビュー…市埋蔵文化財調査センター所長 鐘方 正樹
入庁以来、平城京に関する調査や古墳発掘等、数々の遺跡調査に携わり今年で38年を迎える。平成8年には中国のこげん市で行った発掘調査に参加。「調査中に東ローマ金貨を発見したことは今でも忘れられない」と思い出を語る場面も。

質問…他の古墳の調査結果と比べて、特徴的な点はありますか?
答え…当時日本で最大の蛇行剣・盾形どうきょうが木棺の外にあったにもかかわらず、中の副葬品がたてぐし・鏡のみで少なかったことですかね。
まず、副葬品の配置から考えてみました。遺骸の頭には水銀朱、足元にはたてぐし・鏡、そして木棺の外では、遺骸の近くに蛇行剣や盾形どうきょうを分けて配置することで全体を守っていたのではないでしょうか。こう考えると、遺骸に近い部分を大きな剣や鏡で守ったため、中の副葬品は簡素にしたのかもしれません。あくまで僕の想像ですが…

質問…なるほど。ある意味、木棺の内外からさまざまなもので強く守られていたのですね。
答え…そうですね。よほどすごい人だったのでしょうね。

質問…所長はこの木棺内に、誰が埋葬されていたと思いますか?
答え…前回の第六次調査で、男性を象徴する武器武具を模した蛇行剣・盾形どうきょうが発見されたため、我々は「男性が埋葬され、きっと中にも甲冑等、比類ない武具が入ってるだろう」と思っていました。しかし、いざ掘り進めるとびっくり。想定していた副葬品は一切なく、鏡とたてぐしのみ。これらは化粧道具でありながら、呪術にも利用されていました。当時の祭祀を司る人に女性が多いことから、呪術等を得意とする女性ではないかと僕は考えています。また当時、同じ古墳に埋葬される者は、古墳の主と血縁関係にある者が多かったようです。それを含めて推察すると…
墳頂部に眠る当時の支配者(兄)が、政治を祈祷・呪術で支えてくれた亡き巫女(妹)の魂を守るため、大切にしていた蛇行剣・盾形どうきょうを供えたのかもしれませんね。

 

蛇行剣、特別公開します

前回の調査で出土した、国内最大で最古の蛇行剣。この機会にぜひ。
3月30日(土曜日)〜4月7日(日曜日)※4月1日(月曜日)を除く
ところ:県立橿原考古学研究所附属博物館(橿原市)
問合せ:同研究所(電話番号:0744ー24ー1101)