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7月11日に行われた奈良市長選挙で仲川げん市長が当選し、翌日7月12日の当選証書授与式と合わせて初登庁しました。7月31日から仲川市政の四期目が始まりました。
このたび、多くのみなさまのご支援を賜り、引き続き市政を担わせていただくこととなりました。これまでの三期12年間の取り組み、そして喫緊の課題である新型コロナウイルス感染症への対応や、ワクチン接種事業等をご評価いただき、改めて信任を賜りましたことに、その責任の重大さを痛感し、身の引き締まる思いがいたします。
平成21年の市長就任以来、長年先送りされていたさまざまな行政課題の解決に取り組んでまいりました。市民のみなさまのご理解とご協力により、来庁を不要とする行政手続きの簡略化や、市庁舎耐震化の完了、そして(仮称)子どもセンターや新斎苑の来春の開設に向けて一歩前進することができました。一方で、前述の新型コロナウイルスへの対応だけでなく、新クリーンセンターの建設や依然厳しい財政状況の健全化等、これから解消すべき課題はまだ多くあります。今後は引き続きコロナ対策を優先に、市民の命と生活を全力で守りながら、スピード感を持って累積する課題解消に取り組んでまいります。
今後の4年間は、世界中の最先端技術と英知が結集し、さまざまな人・企業・モノ・文化が行き交う「2025年大阪・関西万博」が開催される等、関西全域が重要な時期になります。国際文化観光都市である奈良市においても、アフターコロナを見据えて新しい技術を活用しながら、安心して暮らせる未来志向のまちを目指して誠心誠意努力してまいりますので、市民のみなさまの引き続きのお力添えをお願い申し上げます。
仲川げん
近鉄大和西大寺駅から西北へ約1.2キロメートル。ここに古墳時代から飛鳥時代に造られた「赤田横穴墓群」があります。今年、市では当遺跡の調査を実施し、全24基という大規模な横穴墓群の全貌が明らかになりました。その中でミステリアスな発見がありました。それは全国的に見ても珍しい、墓を守るように置かれた2つの欠けたハニワ(埴輪)です。今回は最新の調査成果を紹介するとともに、この不思議な墓に葬られた人物像に迫ります。
〇横穴墓(おうけつぼ)とは…
丘陵や山の斜面を掘り込んで造られた横穴式の墓で、6〜7世紀頃の限られた地域に複数造られるのが特徴。市内では北西部で多く見られ、赤田横穴墓群はその代表的遺跡。埋葬者の身分は、前方後円墳等に葬られた地域首長等に比べると低かったと推測される。
〇発掘調査の概要
大和中央道建設に伴い、今年3月8日から発掘調査を実施しています。これまでの調査で既に横穴墓を16基確認し、粘土を焼いて作られた陶棺が数多く出土。6世紀後半〜7世紀中頃に作られたことが判明しています。
今回の調査では、新たに横穴墓が8基見つかり、全24基・東西約150mにも及ぶことが分かりました。また、さまざまな形の陶棺や木棺と、土器や鉄製の刀子・鏃等の副葬品が出土したほか、19号墓から頭の部分が欠けた人物埴輪と、上下が欠けた朝顔形埴輪が墓を守るように置かれているのが見つかりました。19号墓は比較的新しい7世紀中頃の墓。ハニワ生産が終了していた時期の墓にハニワを立てる例は、かなり珍しいと言えます。
〇発掘調査によって浮かび上がる被葬者の謎。その真相に迫ります。
1.ズラリ24基。大きな集団の墓か?
かなり大きな集団が、古墳時代から飛鳥時代にかけて利用していた可能性あり。同時期の前方後円墳等に埋葬されている人物とは違い、王や地域首長といった集団ではなさそうですが…
2.墓の近くに大きなハニワ工房&住居跡発見!
横穴墓群から南東へ約1.9キロメートルの菅原東遺跡に、古墳に並べるハニワの工房と、工人の住まいの跡が。ハニワ製作集団と横穴墓、地域的に関係がありそうです。
3.日本書紀に、菅原・秋篠地域でハニワ誕生の物語が
古墳時代、佐紀古墳群の造営に伴って、このエリアでハニワが誕生…?日本書紀には、ハニワ製作集団の祖先「野見宿禰」(のみのすくね)にまつわる伝承が記録されています。
4.赤田横穴墓群から出た陶棺…作り方はハニワそっくり
菅原東遺跡のハニワ工房で、なぜか陶棺の破片が発見されました。ハニワを作る窯で、赤田横穴墓群の陶棺もセットで作っていたようです。陶棺とハニワは作り方がよく似ており、同じ工人が作っていたようです。
5.昔のハニワをわざわざ置いた人々
飛鳥時代、彼らは昔作られたハニワを、墓前に立てました。このハニワ、古墳時代の菅原・秋篠の工人が作った可能性があります。
土師氏という集団でしょう。日本書紀には、菅原・秋篠の地に、王族の古墳に並べるハニワを作っていた工人集団・土師氏がいたと記されています。菅原東遺跡のハニワ工房は土師氏のものと見られます。ハニワと陶棺の作り方が似ていることや距離の近さからも、土師氏代々の墓の可能性が高いでしょう。
・不思議な2つのハニワの秘密
古墳時代も終わり、ハニワ生産も終わりますが、土師氏はこの地域に住み、横穴墓群に埋葬され続けました。不思議な2つのハニワは、ハニワ生産が終わった飛鳥時代の墓に置かれました。おそらく先祖との繋がりを求めて、先祖が昔作ったものを近隣の古墳から調達し、置いたのでしょう。
・菅原氏・秋篠氏へ転身した土師氏
その後土師氏は、菅原・秋篠氏と姓を変え、官僚や天皇側近の学者になり、菅原道真を輩出するまでになります。平城京の時代が終わり、京都に都が移った平安時代になっても、赤田横穴墓群には墓参りが行われた形跡があります。
佐紀古墳群の造営時から菅原に居ついた土師氏は、職や姓を変えた後でも、祖先とこの地を大切にしていたのでしょう。
古墳時代
・4世紀(301年〜)
日葉酢媛陵(佐紀古墳群)、垂仁天皇陵等の巨大古墳が造られる
土師氏の前身集団が市内に住み、ハニワ作りを始めたとされる(中頃)
・5世紀(401年〜)
佐紀古墳群の造営が終わり、ハニワづくり集団を再編成。土師氏が誕生。ハニワを広域に供給する(末頃)
・6世紀(501年〜)
赤田横穴墓群が造られ始める
陶棺の生産を開始(中頃)
ハニワの生産終了(末頃)
飛鳥時代
・7世紀(601年〜)
赤田横穴墓群の造営終了
赤田横穴墓に昔作ったハニワを持ち込み、墓前に立てる(中頃)
奈良時代
・8世紀(701年〜)
平城京遷都(710年)
「古事記」成立(712年)
「日本書紀」成立(720年)
土師氏が「菅原」(781年)、「秋篠」(782年)にそれぞれ改姓
平安京遷都(794年)
平安時代
・9世紀(801年〜)
菅原道真が右大臣に(899年)
これまでの調査で赤田横穴墓群から発掘された出土品の数々。全国的に珍しい陶棺が多く見つかっています。
全国初・縦型の円筒形陶棺
一旦別の場所で土葬した後、骨だけを取り出して縦型の陶棺に納骨したか。全国でも初めての出土例。
一族が墓に参った証・平安時代の遺物
9世紀後半の土師器皿・須恵器壺。平安時代に、土師氏一族ゆかりの者が、横穴墓群に墓参りをしたとも考えられる。
土師質亀甲形陶棺
市北西部発祥のデザインで、ここを中心に京都府南部から滋賀県南部にかけて出土。近畿地方で最も多く出土する陶棺のタイプ。
近鉄大和西大寺駅の南側から尼ヶ辻駅周辺には、土師氏ゆかりの地が点在しています。土師氏の生きた時代に思いをはせながら、秋の散策スポットとして巡ってみてください。
・宝来山古墳(垂仁天皇陵)土師氏の姓を与えた王の墓
4世紀後半頃の前方後円墳。全長227メートル(全国20位)。日本書紀には、垂仁天皇の妻・日葉酢媛命の墓を造る際、天皇に仕えていた野見宿禰が、殉死ではなく人型の埴輪を古墳に置くことを進言し、その功績から土師の姓が与えられたという伝承が記されています。
・菅原天満宮
天照大神の子・天穂日命、土師氏の始祖・野見宿禰とその子孫・菅原道真公が祀られる日本最古の天満宮
・菅原はにわ窯公園
菅原東遺跡の発掘で、土師氏がハニワを焼いた窯跡を発見。調査後は公園として整備。埴輪窯等の遺構を公園内に屋外展示
・市埋蔵文化財調査センターで発掘調査の成果を展示
今回紹介した出土品の一部は、特別展示「帯解の古墳時代とワニ氏」(9月6日〜11月5日、19ページ参照)終了後に、同センター(大安寺西二丁目281)で常設展示。
・土師氏一族が活躍した佐紀古墳群を動画で紹介
ウワナベ古墳の発掘調査の様子とともに、佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵)をはじめとする佐紀古墳群を、奈良市動画チャンネルで公開しています。
【本特集の問合せ】埋蔵文化財調査センター(電話番号:︎33ー1821)