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慶応3年(1867)10月の「大政奉還」ののち、12月には「王政復古」が宣言されるなかで、明治新政府が成立しましたが、翌4年正月、「鳥羽・伏見の戦い」がおこり、一年半近くにわたる旧幕府勢力との内戦が続きました。
こうしたなかで、新政府による大和の鎮撫はいちはやく進められ、慶応4年(1868)正月早々には奈良奉行小俣景徳(おまたかげのり)が大豆山(まめやま)崇徳寺(そうとくじ)に謹慎の身となりました。ついで新政府の軍事参謀烏丸光徳(からすまるみつえ)が薩摩藩兵らをしたがえて奈良に到着、烏丸の命で興福寺はほんのしばらく町政をまかされました。さらに、同21日、大和鎮台(長官 久我通久〈こがみちつね〉)をおき、2月1日にはこれを大和国鎮撫総督府と改め、興福寺にかわって奈良の町政に当たらせました。
この総督府は5月19日に廃止され、旧幕府領・旗本領・寺社朱印地を管轄とする最初の奈良県(知県事 春日仲襄〈なかあき〉)がおかれました。この奈良県も、同7月に奈良府(知府事 園池公静〈そのいけきんしず〉)と改称、翌明治2年(1869)7月に再び奈良県となりました。
その後、3年2月に五條県(知県事 鷲尾隆聚〈わしのおたかつむ〉、奈良県内の宇智・吉野郡、堺県内の錦部・石川郡・紀伊国伊都・那賀郡を管轄)が設置されました。まだこの時期は藩と県が併存する状況にありましたが、4年7月に「廃藩置県」が断行され、大和でも奈良・五條の2県のほか、郡山・柳生・高取など8つの藩は県をとなえるようになりました。ついで同11月、大和一国を管轄とする奈良県(県令 四条隆平〈たかとし〉)が成立し、県庁は興福寺の旧一乗院におかれました。
明治二己巳年正月改 奈良府官員録(写)
いっぽう、明治維新とともに奈良の町政は大きく変わりました。慶応4年(明治元)に入ると、いままで奈良奉行所のもとにあった奈良の町政は、一時興福寺、大和鎮台、大和国鎮撫総督府、あるいは奈良県の支配のもとにおかれました。これまで続いた惣年寄や町代が廃止され、奈良府のもとで、奈良の施政のため市政局下用掛(下御用掛とも称す)をおき、4名の惣年寄格の町人を任命、東寺林町に市中惣会所が設けられました。
ついで奈良市中は東西南北の4組に分け、各組ごとに中年寄・添年寄が1名ずつ配置されて市政局下用掛を補佐することになりました。この東西南北各組内の町々にはこれまでどおり町年寄がおかれました。その後、市政局下用掛は市中下用掛と名を改められ、その補助職として同手伝職が設けられました。また奈良県から「市中規則并心得方之事」(明治3年11月)が示されると、市中下用掛は大年寄と改め、御用掛手伝と添年寄は廃止されて新たに大年寄2人、中年寄4人が市政を分担することになり、市中惣会所も市中用向取扱所と改称され、県庁の近くにおかれました。
当時、奈良県からの布令・布達は、大年寄→中年寄→各組の組惣代(組内の町年寄の代表)→組内の町年寄→町内組頭へと伝達する仕組みでした。
明治4年(1871)4月の「戸籍法」にもとづき、新たな区画を設け、戸籍吏として戸長・副戸長をおくように定めました。
これをうけて奈良県では、翌5年4月『戸籍編制手順書』を頒布し、新たな戸籍区として大和の15郡(添上郡が第1大区、以下各郡に順次大区番号を付与)をそのまま大区におきかえ、大区ごとに従来の町村を組み合わせて小区としました。また戸籍吏として奈良町では大年寄と中年寄がそのまま市中戸長となり、各町に戸長副役(副戸長)がおかれました。これが新しい地方行政区画に整備されて「大区・小区制」となりました。奈良町は第1大区第1小区から第4小区までに分けられ、各小区ごとに事務所(戸長役所)を設け、戸長・副戸長がおかれ、大年寄・中年寄の経験者が選ばれました。同年11月には各大区に会議所が設置され、奈良町は大豆山崇徳寺におかれた第1会議所の管内となり、第1会議所は第1大区(県内12大区)と称されるようになりました。そして6年10月には第1大区が23小区に改編され、奈良町は第1小区から第5小区まで5つの小区となりました。
「奈良県庁設置」歎願書
(明治9年 鶴福院町有)
ところが、明治7年(1874)10月、県内はそれまで12大区であったのが、10大区とされ、125ヵ小区に整備されました。9年4月、奈良県が堺県に合併されると、まもなく大和国の行政区画は5大区24小区に統合され、奈良町(224町村)は、大和国第1大区1小区に編成替され、第1小区事務所は東寺林町の旧柳生藩屋敷跡に設置されました。奈良町では奈良県の設置を求めて内務省へ嘆願しようとの動きがみられましたが、奈良県再設置運動には発展しませんでした。
明治11年(1878)7月、「地方三新法」(「府県会規則」、「地方税規則」、「郡区町村編制法」)の一つ、「郡区町村編制法」にもとづき、堺県では「大区・小区制」を廃止し、新しい郡区編成が敷かれることになりました。大和国は、奈良・三輪・御所・五條の4つの郡役所がおかれ、管内に10の連合戸長役場が配置されました。添上・添下・平群・山辺・広瀬の5郡連合郡役所(奈良郡役所)は、旧興福寺金堂内(元堺県奈良出張所跡)におかれ、奈良町は接続18ヵ村とともに第1連合戸長役場(戸長4人、用掛・筆生6人)の管轄となりました。
明治14年(1881)2月に堺県が大阪府に合併され、大和国も大阪府に属することになりましたが、大和では、大阪府会議員を中心に奈良県の再設置を求める運動(奈良県再設置運動)が起こりました。大阪府では町村ごとの「戸長役場制」を採用しており、奈良市中は36の戸長役場に増えましたので、翌15年10月、郡長からの提案で、5ヵ所の連合戸長役場に改編され、第1連合戸長役場から第5連合戸長役場までとなりました。さらに17年5月に「区町村会法」(明治13年4月公布)の改正があり、これによって戸長役場の管理区域が拡大され、奈良町と接続村は第1から第5戸長役場に配置されることになり、第1戸長役場は押上町外21ヵ町村、第2戸長役場は高畑外17ヵ町村、第3戸長役場は中辻外33ヵ町村、第4戸長役場は椿井町外35ヵ町村、第5戸長役場は大豆山町外44ヵ町村となりました。
明治20年(1887)11月、奈良県再設置運動が実を結び、奈良県の再設置が決まりました。そして元堺県令で元老院審議官税所篤(さいしょあつし)が知事に任命されました。翌21年4月、「市制・町村制」が公布され、奈良町でも市制・町制をめぐっていろいろと論議されました。県庁の所在地となったばかりの奈良町では市制施行を望む声が強かったものの、「習慣生計等ハ奈良市街ト異ナリ利害ヲ同一」でないこと、「生計情態人情ヲ異ニスル」こと、あるいは街区の体裁などを理由に市制施行に反対する町村もありましたが、結局、人口不足のために市制施行は見送られることになりました。
明治22年(1889)2月、県の奈良町村合併施行案が内務大臣によって認可され、同4月1日に奈良市街と接続村合わせて147ヵ町村からなる奈良町が発足し、東寺林町の旧柳生藩屋敷跡に町役場がおかれ、町長事務取扱に橋井善二郎が任命されました。
明治31年(1898)2月1日、奈良市が誕生しました。新しい奈良市は、戸数5,613戸、人口2万9,986人(同年12月31日現在)、旧奈良町を中心とした面積23.8平方キロで、奈良県で最初の市となりました。
市章
(明治36年制定)
ところで、さきの「市制・町村制」では、市制に必要な標準人口3万人にほど遠く市制は見送られましたが、奈良県再設置以後、奈良町は県庁所在地となったこと、鉄道の開通によって大阪や京都への交通の便がよくなったこと、企業がようやく起こり各種の銀行や会社が設立されるようになったこと、奈良公園の拡張整備がすすみ遊覧客が増えてきたこと、さらに帝国奈良博物館の開館・県庁舎の新築など県都として整備されはじめ、また人口も急激な増加傾向を示すなど、奈良町は名実ともに奈良県の中心都市となりつつありました。
こうしたなかで、明治30年(1897)11月、町会は市制施行建議案を満場一致で可決、請願委員の松井元淳町長と鍵田忠次郎は上京し、翌31年1月10日、樺山資紀(かばやますけのり)内務大臣に「市制施行申請書」を提出、奈良市制の必要性が認められ、2月1日に内務省告示第3号で、奈良町を奈良市とすることが正式に認可されました。
その後、周辺の町村との合併がすすみ、戸数14万6,589戸、人口37万3,574人(平成17年4月1日現在)の大奈良市が成立しました。
「奈良市役所」(『奈良名勝写真帖』〈大正4年〉より)
天明7(1787)年 | 5月 | 奈良町で打ちこわし | |
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弘化3(1846)年 | 1月 | 川路聖謨、奈良奉行となる | |
慶応3(1867)年 | 10月 | 「ええじゃないか」奈良町にも及ぶ | |
12月 | 9日 | 王政復古の号令が出る | |
4(1868)年 | 1月 | 鳥羽伏見の戦い起る | |
16日 | 奈良奉行小俣伊勢守景徳、大豆山町崇徳寺内で謹慎 | ||
21日 | 大和鎮台を興福寺摩尼珠院におく(のち大和国鎮撫総督府に改称) | ||
5月 | 19日 | 奈良県設置(知県事 春日仲襄) | |
6月 | 17日 | 惣年寄や町代を廃止 | |
7月 | 29日 | 奈良府(知府事 園池公静)と改称 | |
市政局下用掛(のち市中御用掛、惣年寄に相当)、4人任命 | |||
9月 | 14日 | 市中惣会所、東寺林町に設ける | |
19日 | 奈良市中を東西南北の4組に分け、各組に中年寄と添年寄を配置 | ||
明治2(1869)年 | 6月 | 17日 | 版籍奉還(知藩事 274名) |
7月 | 17日 | 奈良県(知県事 園池公静、のち海江田信義)と改称 | |
3(1870)年 | 2月 | 27日 | 五條県設置(知県事 鷲尾隆聚、のち四条隆平) |
11月 | 12日 | 奈良県から「市中規則并心得方之事」指示 | |
12月 | 市中惣会所、東寺林町から県庁近くに移転、「市中用向取扱所」と改称 | ||
4(1871)年 | 4月 | 「戸籍法」公布(新しい区画、戸籍吏として戸長・副戸長をおく) | |
7月 | 14日 | 廃藩置県(全国3府302県、知藩事→知県事) | |
11月 | 22日 | 大和一国を管轄する奈良県成立(県令 四条隆平、県庁 興福寺旧一乗院) | |
5(1872)年 | 4月 | 『戸籍編制手順書』を頒布 | |
5月 | 「大区・小区制」実施。奈良町は第1大区第1小区~第4小区に編成 | ||
『日新記聞』創刊 | |||
11月 | 10日 | 各大区に会議所設置を告諭、奈良大豆山町崇徳寺に第1会議所設置 | |
6(1873)年 | 1月 | 奈良町は第1会議所に属する | |
2月 | 奈良角振町に第一大屯所(のち奈良大屯所)を設置 | ||
8月 | 「会議所条例并大小区諸規則」(各会議所部内を1大区とし、第1会議所は第1大区となる) | ||
10月 | 第1大区を23小区に改編。奈良町は第1大区第1小区~第5小区となる | ||
7(1874)年 | 8月 | 「会議所条例并区戸長心得書」(大区に区長・副区長・会計用掛各1名、小区に戸長1~2名)。県内に12大区を設ける | |
10月 | 県内10大区に変更(県内10大区125小区) | ||
8(1875)年 | 4月 | 第1次奈良博覧大会開催 | |
9(1876)年 | 4月 | 18日 | 奈良県を廃止、堺県に合併(県令 税所篤) |
5月 | 12日 | 奈良町民から県庁存続を求める歎願書提出の動き(鶴福院町有文書) | |
12月 | 堺県で大区小区改正(大和国5大区24小区)、奈良町は大和国第1大区第1小区となる | ||
10(1877)年 | 2月 | 8~12日 | 明治天皇の大和行幸 |
11(1878)年 | 7月 | 22日 | 「郡区町村編制法」制定、「大区・小区制」廃止 |
13(1880)年 | 2月 | 13日 | 興福寺旧境内と春日野の一部を奈良公園に指定 |
4月 | 大和国各郡役所管内(奈良・三輪・御所・五条 の4郡役所)に戸長役場を設置。奈良町は接続18ヵ村とともに、奈良郡役所管内の第1連合戸長役場となる | ||
14(1881)年 | 2月 | 7日 | 堺県を廃止、大阪府に合併(知事 建野郷三)。大和国も大阪府管内となる |
12月 | 25日 | 奈良県再設置運動はじまる | |
20(1887)年 | 11月 | 1日 | 奈良県再設置 |
22(1889)年 | 3月 | 春日山・若草山などを奈良公園に編入 | |
4月 | 奈良町、町制施行 | ||
23(1890)年 | 12月 | 大阪鉄道(奈良-王寺間)開通 | |
28(1895)年 | 4月 | 帝国奈良博物館開館 | |
29(1896)年 | 4月 | 奈良鉄道(奈良-京都間)開通 | |
31(1898)年 | 2月 | 1日 | 奈良市制施行 |
(このページは史料保存館展示パンフレット『町政から市政へ 近世から近代の奈良町』にもとづいて構成しました。)