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新年あけましておめでとうございます。
市民の皆さまにおかれましては、清々しい初春をお迎えのことと心よりお慶び申し上げます。
さて、本年2月1日に本市は市制施行120周年を迎えます。これまで本市の発展にご尽力いただいた多くの皆さまに深く感謝を申し上げます。
本市は、隣接する町村との合併や京阪神のベッドタウンとしての西部・北部における住宅開発などを経て、明治31年当時の市域23.44平方キロメートル、人口約3万人から、現在276.94平方キロメートル、約36万人の中核市へ、また、平成28年の観光入込客数が1500万人を超え、特に外国人観光客数は157万6千人と大幅に増加するなど、国内外に知られる観光都市としても大きく成長をしてまいりました。
しかし、このまちの真の魅力は、1300年前に都が置かれた当時、この地で、くにづくりが始まり、大陸との交流の中で華やかな天平文化が花開くとともに、建立された多くの寺社のもとで今日あるさまざまな産業が生まれるなど、あらゆる分野における「日本のルーツ」であることだと考えております。
そして、先人たちが創り守ってきたこのまちを、未来の世代に繋いでいくことが、今を生きる私たちの責任だと今改めて感じているところでございます。
市民の皆さまには、本市のさまざまな取組に対しましてお力添えをいただき、昨年も実り多い一年となりましたことお礼申し上げますとともに、本年も市政に更なるご支援とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
皆さまにとりまして、新しい年が幸多き素晴らしい一年となりますよう祈念いたしまして、新年のご挨拶といたします。
謹んで新年のお慶びを申し上げます。
市民の皆さまにおかれましては、平成三十年の希望に満ちた新春を健やかにお迎えのことと心よりお慶び申し上げます。
さて、昨年の選挙におきまして、私ども市議会議員三十九名は、市民の皆さまからの負託を賜りました。その信頼に応えられるよう今年も奮励努力しながら責務を全うしたいと考えております。
我が国では、年々少子高齢化が進行し、人口減少などの「縮む社会」の到来を迎えている状況下で、本市においても時代の流れに沿った施策が求められております。
限られた財源の中で、各施策に対して活発な議論、そして慎重な審議を行いながら、市政における監視能力を高め、さらに魅力ある奈良市を実現するために、一層の努力を重ねてまいる所存でございます。
今後も、市議会議員として市民の皆さまから選ばれた誇りを持ち、二元代表制の一翼を担う議会としての役割を十分に発揮して福祉施策の充実、市民生活の向上に全力を傾注してまいりたいと存じます。
本年も、変わらぬご支援とご協力をお願いいたしますとともに、皆さまがご健勝にて素晴らしい一年を送られますよう祈念申し上げ、年頭のご挨拶といたします。
昨年6~8月に行った航空レーザによる古墳の3次元計測調査の結果、富雄丸山古墳(丸山一丁目)が3段につくられた直径110メートル前後の円墳であり、これまで国内最大とされてきた丸墓山古墳(埼玉県)を上回る規模であることがわかりました。あわせて北東部に造り出しがあることも改めて確認できました。
今回、奈良市で国内最大の円墳が見つかったことは、本市が「古墳文化の中心地にある」ことを平城宮跡北方の佐紀古墳群とともに示す意義深いものになりました。
富雄丸山古墳の築造時期は、4世紀後半(古墳時代前期後半)と推定されています。明治時代には石製品を中心とした多くの副葬品が出土し、国の重要文化財(京都国立博物館蔵)に指定されています。また、三角縁神獣鏡3面(天理大学附属天理参考館蔵)もこの古墳から出土したと伝えられ、墳丘には埴輪が立て並べられています。
昭和47年には墳丘の測量調査と墳頂部埋葬施設の発掘調査が行われ「直径86メートル」の円墳と報告されました。昭和57年に墳丘の一部が追加調査され、「北東側に造り出しが取り付く直径102メートル前後の円墳」となる可能性が指摘されたものの詳細は不明でした。今回の測量調査で「国内最大の円墳」として復元できることがわかり、来年度から発掘調査を行って詳細な構造を解明していく予定です。
12月4日に若草台集会所で地域住民に向けた説明会を開催しました。当初予定は30人でしたが、当日は100人を超える人が集まり、会場は満員となりました。古墳調査の成果に関する説明を行った後、質疑の時間を設けたところ、参加者からは、調査の際どれくらいの木を伐採するのか、誰の墓なのかなど、時間いっぱいまで多くの質問が寄せられました。その後、古墳での現地説明。小雨の降る中、多くの人が熱心に説明に耳を傾けました。
今後は、富雄丸山古墳が住民に愛される古墳になるよう、みなさんとともに協力して、発掘調査を行っていきます。
ヤマト政権中枢の勢力関係の推移を解明する上で、大きな成果
今回「発見」された最下段(1段目)は、丘陵上の地形に制約されて一部で築造が省略されていた可能性もあるが、墳丘と思われる斜面が確認できる部分で計測すると、直径110メートル程度になると推定され、我が国最大の円墳となる可能性が高い。
富雄丸山古墳が築造された4世紀後半は、大王の前方後円墳が奈良盆地東南部から北部へ、そして生駒山地を越えて大阪平野南部に移動する時期であり、ヤマト政権内の新旧の勢力交替を伴う「政治変動期」にあたっている。古墳時代初頭にはまれで、この頃から各地に現れ始める大型円墳は、ヤマト政権内の新勢力と深く連携した有力者の墳墓形式として新たに登場した可能性を考えてよい。
盆地北部の生駒山地東麓近くに築造された富雄丸山古墳が、日本最大の巨大円墳となる可能性が浮上したことは、ヤマト政権中枢の勢力関係の推移を解明する上で、大きな成果と言える。墳丘構造や埴輪の分析など、今後の調査に大いに期待したい。