ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 分類でさがす > 奈良市の魅力 > 文化財 > 文化財 > 文化財 > 奈良町の成立 中世から近世へ

本文

奈良町の成立 中世から近世へ

更新日:2012年3月1日更新 印刷ページ表示

中世の奈良

 奈良の町は、古代の都、平城京の「外京(げきょう)」とよばれる地域を中心に形成されました。都が京都へうつると平城京はまたたくまに荒廃してしまいましたが、京内にあった東大寺・興福寺・元興寺などの諸寺院はそのまま奈良にのこされました。
 のちに奈良は「南都(なんと)」とよばれるようになります。東大寺・興福寺の門前には、寺の仕事に従事するさまざまな人々が集まり、やがて「まち」ができます。このような「まち」を「(ごう)」とよび、奈良の町は寺社の門前郷(もんぜんごう)として発達していきます。
 平安時代末期、平氏が勢力を強めると南都寺院と対立するようになります。治承4年(1180)、平重衡(たいらのしげひら)が南都を攻め、その兵火により東大寺・興福寺とともに奈良の町も大半が大きな被害をうけました。

 これら東大寺・興福寺などの復興は公家・武家の援助によっておこなわれ、門前の各郷も活気をとりもどしました。「南都七郷(なんとしちごう)」の名がおこり、興福寺の一乗院・大乗院の両門跡郷、東大寺の転害郷(てがいごう)なども加わり、やがて一乗院門跡郷に北市(きたいち)が、大乗院門跡郷に南市(みなみいち)が開設されるようになり、商工業がますます発展していきました。

奈良町の成立

 戦国の争乱がおさまり、豊臣氏が政権をとると大和は豊臣秀吉の弟、秀長が領主となります。秀長は大和郡山を本拠地に井上源五高清を奈良代官に任命し、奈良椿井町の中坊屋敷を代官所として奈良の支配にあたりました。豊臣氏の奈良支配は、井上代官のもとに選ばれた12の町を櫃本(はこもと)とし、そこから6人の町年寄が選ばれて奈良惣中(ならそうちゅう)を形成していました。

 やがて慶長8年(1603)に徳川幕府が成立すると、家康の側近大久保石見守長安が奈良代官に任命されました。
 この慶長8年前後に奈良町では検地にあたる「屋地子帳改め(やじしちょうあらため)」がおこなわれ、町域を画定する「町切り(まちきり)」が実施されましたが、これによって奈良の諸郷ははっきりと町と称されて、100町が町として確定され、その総称として奈良町とよばれるようになりました。また文禄検地でいったん町から切り離された街地続きの村々も、「地方町(じかたまち)」として25町が奈良町に編入されました。

 慶長18年(1613)、中坊秀政が最初の奈良奉行(ぶぎょう)に任命されましたが、これ以降、奈良町は徳川幕府の直轄地として奈良奉行所が支配することになりました。
 やがて奈良町に続く村々や興福寺領の高畠(たかばたけ)・紀寺(きでら)・木辻(きつじ)・三条(さんじょう)村をはじめとする寺社境内地(けいだいち)も「地方町」に準じた扱いとなりました。さらに奈良町をとりまく幕府領の城戸(じょうど)・油坂(あぶらさか)・杉ヶ町(するがまち)・芝辻(しばつじ)・法蓮(ほうれん)・京終(きょうばて)・川上(かわかみ)・野田(のだ)のいわゆる「奈良回り八か村」も奈良奉行の支配下にあったので、広い意味での奈良町と考えられるようになりました。

 このようにして17世紀末の奈良町は、全体で205町、35,000人あまりの人が生活する町となりました。ちなみに奈良町の戸数と人口は、寛永8年(1631)には戸数6,582軒、人口34,985人、元禄11年(1698)には戸数6,259軒、35,369人、幕末の安政4年(1857)には人口20,661人と元禄期をピークに人口は減少気味であったといえます(『奈良市史 通史三』)。

和州奈良之図
和州奈良之図(天保15年〈1844〉)

奈良町の町政

 すでに豊臣氏支配の時代に「櫃本」とよばれる12の町(郷)から6人の町年寄が選ばれていましたが、徳川政権の出現によって奈良町の整備がすすみ、慶長7年(1602)に「総年寄制」が設けられました。
 総年寄は、有力な町人の中から選ばれ、奉行の指図をうけて町政にあたりました。その人数は、江戸中期は3人、幕末には4人いたといわれます。町民を代表し、奉行所からの触書や町民からの願書を取りついだりしました。
 総年寄のもとで事務をとったのが町代(ちょうだい)です。町々に命令を伝える上町代が2人、上町代を補佐する下町代が3人いました。上町代は、奈良町を南北二つに分けて担当していました。町代は、町中の経費の計算、各町に宗旨改めの指示、高札場・火の見櫓(やぐら)・橋の修理、町民訴訟の調停にあたりました。
 さらに各町には町年寄と月行事(つきぎょうじ)がいて、いまの町内会長のような仕事をしていました。
 このように近世奈良の町政は、奉行のもと総年寄-町代-町年寄によって運営されていました。

奈良奉行と奉行所

奉行所(和州奈良之図)の画像
奉行所(和州奈良之図)

 奈良奉行は、「奈良町御奉行」「南都町奉行」「南京奉行」とよばれます。奈良奉行の最初は、慶長18年(1613)に任命された中坊秀政(飛騨守)といわれています。
 中坊氏は、もともと興福寺衆徒出身で、慶長18年(1613)、秀政が奈良奉行となりました。当初、奈良椿井町の自宅を代官屋敷としていましたが、慶長年間に新しく代官所が造営され、そこに奉行所が開設されたといわれます(現在の奈良女子大学構内)。これ以降、奈良町は徳川幕府の直轄地として奈良奉行所が支配することになり、奉行のもとで奈良の有力な町民は、総年寄町代など町政に関わる役職に任命され、そのもとに各町に町年寄月行事がおかれました。奈良奉行所の組織が整備されたのは、中坊時祐(美作守)(1638~1663)が在任中のときで、与力(よりき)6騎、同心(どうしん)30人、牢番(ろうばん)1人がおかれました。与力はその後8人となりましたが、明和年間(1764~1771)以後は、中条(2軒)、羽田(2軒)、橋本、斎藤、玉井の7家の世襲となり、幕末に至りました。同心は初め30人おかれ、うち小頭が2人、残りは平同心とよばれました。

奈良町(中世~近世)略年表

 ・710(和銅3)年 平城京に遷都
 ・752(天平勝宝4)年 東大寺大仏開眼供養
 ・794(延暦13)年 平安京に遷都
 ・1136(保延2)年 春日若宮祭礼(おん祭)はじまる
 ・1180(治承4)年 平重衡、南都焼打ち
 ・1185(文治元)年 東大寺大仏開眼供養
 ・1194(建久5)年 興福寺金堂再建、落慶供養
 ・1195(建久6)年 東大寺再建、落慶供養
 ・1428(正長元)年 土一揆各地に起こり、奈良にも波及
 ・1560(永禄3)年 松永久秀、多聞城を築造
 ・1567(永禄10)年 松永久秀、三好三人衆と合戦、東大寺大仏殿焼失
 ・1568(永禄11)年 織田信長、奈良に屋銭(制札銭)を賦課
 ・1580(天正8)年 織田信長、国中に「指出」提出を命令
 ・1585(天正13)年 豊臣秀長、大和・紀伊・和泉の三国を支配
 ・1595(文禄4)年 太閤検地で奈良町は800石と決定
 ・1613(慶長18)年 徳川幕府、奈良奉行創設(初代奉行中坊秀政)
 ・1634(寛永11)年 奈良町の地子銭(土地にかけられる税のこと)免除
 ・1664(寛文4)年 奈良代官所設置(1795年、五條に移転)
 ・1680(延宝8)年 総奈良町205町、人口38,680人
 ・1692(元禄5)年 東大寺大仏開眼供養
 ・1709(宝永6)年 大仏殿再建、落慶供養
 ・1787(天明7)年 奈良町で打ちこわし
 ・1846(弘化3)年 川路聖謨、奈良奉行となる
 ・1867(慶応3)年 「ええじゃないか」奈良町にも及ぶ
 ・1868(明治元)年 明治政府、大和鎮台(のち大和国鎮撫総督府・奈良県となる)設置

参考文献

 ・『奈良』(永島福太郎著)、吉川弘文館、1963年
 ・『奈良女子大学構内遺跡発掘調査概報』、奈良女子大学、1984年
 ・『奈良市史 通史三』、奈良市、1988年
 ・『奈良市歴史資料調査報告書(一七)』、奈良市教育委員会、2001年
 ・『奈良のあゆみ』、奈良市、2002年

(このページは史料保存館展示パンフレット『奈良町の成立 中世から近世へ』にもとづいて構成しました。)