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正暦寺(しょうりゃくじ)は、正暦3年(992)の創建と伝わります。中世には興福寺の別院として栄えたものの、近世以降は衰退し、現在唯一残る塔頭(たっちゅう)が福寿院です。その客殿(重要文化財)は、棟札から延宝9年(1681)の建立であることが判明しています。
正暦寺福寿院庭園は、表門から客殿にいたる前庭ならびに客殿を取り囲むようにその西側に作られた主庭の2区画からなります。作庭時期を示す資料はありませんが、前庭・主庭とも客殿建立と同時期の作庭とみられています。昭和52年から翌年にかけて客殿の解体修理が行われた時、庭園は荒廃していましたが、奈良県と正暦寺からの要請により昭和53年に日本庭園史家で作庭家でもあった森蘊(もりおさむ、1905-1988)が整備・改修を行いました。
前庭は、表門から客殿へと矩折状の石畳が続き、その左右に景石が配されます。植栽としては、アカマツ・イロハモミジやドウダンツツジなどが用いられます。主庭は、低い土塀等がコの字形に客殿を囲む南北に細長い空間で、土塀よりをコケ、手前を砂利敷きとします。客殿西正面や土塀沿いを中心に大小の景石を配し、北部のクロガネモチのほか景石に沿うような形でマツやツバキ・サザンカ・ドウダンツツジなどが植わります。土塀の下を流れる菩提仙川(ぼだいせんがわ)には小滝が作られ、その水音が耳に心地よく響きます。川を隔てた西方の山には落葉樹が中心の樹林が広がり、庭園と一体となって優れた景色を作っていて、主庭背後の景として来訪者を楽しませる「菩提山(仙)川のもみじ」は当寺に伝わる「十景の勝」の一つに数えられています。
庭園の整備・改修を担当した森蘊は、事前に庭園の実測を行い、破損個所を明らかにしたうえで、京都・奈良における江戸時代初期の庭園のあり方を念頭において施工にあたりました。主庭では倒れていた景石を立て起こし、茂りすぎた樹木は除伐・剪定を行いました。文化財指定を受けた庭園ではなかったこともあり、前庭では主庭に向かって飛び石を打つ、生け垣を作るなどの手を加えたところもあります。この整備・改修により荒廃して不明確であった作庭の時代性が明確になり、庭園と背後の樹林との一体性がより高められました。年月を経て植栽に変化はみられるものの、現在もその骨格は留められています。本庭園は、庭園史研究が実際の庭園の整備・改修につながった森蘊の代表作の一つにあげることができます。
正暦寺福寿院庭園は、庭園と建物と庭の背後の樹林との一体性の高さが特筆されます。庭園と周辺の自然景観とを融合させ、空間を一体化させる手法は日本庭園に受け継がれてきた伝統です。季節の移ろいとともに様々な色彩をみせる樹林の姿は本庭園の重要な構成要素で、これらが相まってつくる景色は観賞上の価値が高いです。また、庭園の整備・改修は、奈良を中心に生涯に約70の庭園を手がけた作庭家でもある森蘊が、日本庭園史家としての高い学術的見識に基づき、作庭時期、建築や周囲の自然景観との関係性を考慮して行ったもので、庭園史における学術上の価値も高く評価できます。
よって、庭園及び所有者の同意が得られた背後の樹林を名勝として指定し、一体的保護を図ろうとするものです。
件名 | 正暦寺福寿院庭園 |
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かな | しょうりゃくじふくじゅいんていえん |
指定(分類) | 奈良市指定文化財(名勝) |
指定日 | 令和5年3月24日 |
所在地 | 奈良市菩提山町53、55、58、59、68、68-2、138-1の一部、146、148、149、150、151、152、154、157、256 |
小学校区 | 帯解 |
面積 | 89,612平方メートル |