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富雄丸山古墳から蛇⾏剣・鼉⿓⽂盾形銅鏡が出⼟ (令和5年1月25日発表)

更新日:2023年1月25日更新 印刷ページ表示

​富雄丸山古墳第6次発掘調査成果について

1. はじめに

富雄丸⼭古墳は、4世紀後半に築造された⽇本最⼤の円墳(直径109m)です。北東側には造出しと呼ばれる張り出し部があります。

これまで、航空レーザ測量調査(第1次調査)、発掘調査(第2〜5次調査)を⾏い、古墳の構造等を明らかにする上で重要な成果を得てきました。

今回の調査は下記の通り実施し、多くの成果を得ることができましたので、その内容を発表します。

所在地:奈良市丸⼭⼀丁⽬1079-239
調査期間:令和4(2022)年10 ⽉5⽇〜現在調査中
調査⾯積:370 平方メートル

富雄丸山古墳1

2.発掘調査成果

(1)造出し上段で粘⼟槨を確認し、蛇⾏剣・鼉⿓⽂盾形銅鏡が出⼟

富雄丸⼭古墳の造出しは、左右⾮対称で特異な3段構造であることが明らかとなっていますが、その性格を⽰すような遺構・遺物はこれまで⾒つかっていませんでした。

本調査で(F 発掘区)造出し上段の確認を⾏ったところ、⻑さ約7.4m、幅約3m、深さ約1m の⻑⽅形を呈する墓坑内で⻑さ約6.4m、幅約1.2m の粘⼟槨(埋葬施設)を確認しました。造出し上⾯の礫敷を埋めた⾯から墓坑が掘り込まれており、墓坑を埋めた後に円丘部2段⽬斜⾯を完成させています。そのため、築造当初は計画されていなかったものの、古墳が完成するまでの間に埋葬施設を作るよう計画変更が⾏われたとみられます。

粘⼟槨内部には、コウヤマキで作られた割⽵形⽊棺が残存しています。棺⾝は、墓坑底を⼀段深く掘りくぼめた部分に設置されているとみられ、棺蓋をのせる位置の約30 cm外側の範囲を粘⼟と砂で薄く整地しています。

円丘部側の被覆粘⼟中には、鼉⿓⽂盾形銅鏡1⾯と蛇⾏剣1本が副葬されていました。
鼉⿓⽂盾形銅鏡は⻑さ約64 cm、幅約31 cmで蒲鉾状に棺蓋を覆う被覆粘⼟の形状に合わせ斜めに⽴てかけられていました。背⾯中央に鈕があり、その上下には倭鏡に認められる鼉⿓鏡の図像⽂様が確認できます。ほかにも鋸⻭⽂を中⼼とする⽂様があり、類例のない銅鏡です。表⾯が平滑に研磨されており、倭鏡⼯⼈が製作したとみられます。

鼉⿓⽂盾形銅鏡をブロック状の粘⼟で埋めてその上に⽔平⾯を作り出し、⻑さ約267 cmの蛇⾏剣が副葬されていました。⽇本最⼤の鉄剣でもあり、蛇⾏剣としては最古例です。

刃部幅は約6cmですが、蛇⾏しているため部分的に残存する鞘の幅は復元で約9cmあります。柄頭・柄⼝・鞘⼝・鞘尻には有機質の装具痕跡が残存していました。

(2)墳丘南東側で最古の湧⽔施設形埴輪を伴う祭祀空間を確認

円丘部の中⼼と造出しの中⼼を結んだラインを主軸とし、そこから90 度南東側にふった1〜2段⽬にあたる部分にU 発掘区を設定しました(第5次調査から継続)。

その結果、2段⽬斜⾯の葺⽯が良好に残存し、その裾を確認しました。そして、その北東側で裾より⾼い位置に取り付く⾼まりがみつかりました。この⾼まりは幅約1m、裾からの⾼さは0.3m であり、2段⽬斜⾯との接続部に湧⽔施設形埴輪を設置していました。

⾼まりの上⾯には⼩礫敷を⾏っています。また、⾼まりの北東側は溝で区画されており、さらに北東側になんらかの遺構が広がっているとみられます。ミニチュア⾼杯が4点以上出⼟しており、これらを⽤いた祭祀空間であったと考えられます。

湧⽔施設形埴輪は、囲形埴輪のなかに家形埴輪を⼊れ⼦状に組み合わせたものです。さらに家形埴輪の内部には2槽式の構造物が設置され、それぞれに⽔を流すためとみられる刳り込みが表現されています。囲・家形埴輪が組み合う場合、⽊樋を表現した⼟製品が伴うものを導⽔施設形埴輪、井⼾等を表現した⼟製品が伴うものを湧⽔施設形埴輪としていますが、2槽式構造物は類例がないものの、どちらかといえば湧⽔施設であるとみられます。このような湧⽔・導⽔施設形埴輪は全国で約10 例みつかっていますが、富雄丸⼭古墳はそのなかでも最古の事例となります。

(3)古墳全体に埴輪列がめぐることを確認

第5次調査で、墳丘1段⽬に普通円筒埴輪、2段⽬に鰭付円筒埴輪を置き分けしていることを確認しました。⼀⽅、墳丘の南⻄側では埴輪列が確認できませんでした。

本調査では、墳丘南側にV 発掘区を設定し、想定位置で3段⽬斜⾯の裾、2段⽬平坦⾯を確認しました。斜⾯の葺⽯は崩れて残存していませんが、2段⽬平坦⾯には⼩礫敷が残存しています。また、裾から約4m 外側では鰭付円筒埴輪列(8本分)を確認しました。

ただし、多くは後世に抜き取られ2本のみ残存しています。墳丘南⻄側は、南・⻄側に⽐べて崩れていることが明らかとなり、本来は古墳全体に埴輪列がめぐっていたとみられます。よって、2段⽬には約400 本の鰭付円筒埴輪が設置されていたと想定できます。

また、墳丘東側に設定したX 発掘区では、1段⽬の普通円筒埴輪列(10 本分)を確認しました。ただし、想定位置より外側かつ円周から逸れる位置でみつかっており、湧⽔施設形埴輪を伴う空間に向けて特殊な構造となっている可能性があります。

(4)富雄丸⼭2・3号墳が前⽅後円墳である可能性を確認

富雄丸⼭古墳の北東側隣接地には、6世紀後半の横⽳式⽯室をもつ富雄丸⼭2号墳、その南東側に3号墳が位置し、奈良県教育委員会が1972 年に調査しています。ただし、3号墳では埋葬施設がみつかっておらず、古墳であるのかを含めて不明確でした。

昨年度実施した第5次調査では、2・3号墳のUAV レーザ測量も実施し、その等⾼線が前⽅後円形にもみえることから、これらの可能性を考慮して1972 年の発掘区を再発掘して⼟層等の再確認を⾏いました。

その結果、3号墳は盛⼟や切⼟が⾏われ⼈為的な造作が認められること、埋葬施設がないことを確認しました。また、2・3号墳の間には両古墳を区画するような溝などの区画施設が認められず、測量成果をふまえれば2号墳を後円部、3号墳を前⽅部とする前⽅後円墳である可能性があります。仮に前⽅後円墳であるとすれば、全⻑は概ね40m 程度とみられます。

3.まとめ

本調査では、造出し上段で粘⼟槨を確認し、出現期の造出しの性格を考える上で重要な成果を得ました。また、そこで出⼟した遺物はいずれも古墳時代前期(4世紀)における国内⼿⼯業⽣産技術の最⾼傑作であるといえます。

墳丘南東側で確認した祭祀空間は、その⼀部を確認したにすぎませんが、北東側の造出し以外にも特殊な施設や空間が広がることが明らかとなり、⼤型円墳である富雄丸⼭古墳の重要性を認識できる成果といえます。

また、富雄丸⼭2・3号墳は前⽅後円墳である可能性が⾼まりました。富雄丸⼭古墳から約200 年後に築造されたものですが、周辺にはその間を埋めるような古墳はなく、6世紀後半になって意図して隣接地に築造したとみられます。両者の関係性を考える上でも、前⽅後円墳であるかは重要な課題であり、形状や構造を今後明らかにする必要があります。

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