ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

奈良のあゆみ-明治以前-

更新日:2019年11月6日更新 印刷ページ表示

弥生時代

奈良市内では旧石器・縄文時代の土器や石器も出土していますが、弥生時代の遺跡は佐紀町、柏木町、杉ヶ町、窪之庄町など市内各地で見つかっており、稲作に適した地に、「ムラ」ができていたと考えられています。

古墳時代

4世紀ごろになりますと、有力な豪族などが大和盆地に大きな墳墓を作るようになりました。特に奈良市付近で勢力を持っていたのが和珥氏で、これは後に春日氏を称するようになり、6世紀の末頃から、その一族である大宅・小野などの諸氏が力をもつようになりました。
その他に奈良市北西部を拠点に、後に菅原氏となった土師一族が勢力をもっていました。

奈良時代

710年(和銅3年)飛鳥の藤原京から奈良へ都が移され平城京が築かれました。
その後、70年あまりの間、平城京は古代日本の都として栄えることになったのです。
この都は、東西約4.3km南北4.8kmの広さに、外京として東に東西約1.6km、南北2.4kmを加えた面積を占め、平城宮から南に走る朱雀大路を中心に、大路と小路によって整然と区画され、壮麗な宮殿や寺院、貴族の邸宅によって美しく彩られていました。唐の都、長安にならった、規模雄大な都市計画だったのです。
その最盛期の人口約10万、唐をはじめ渤海・新羅など異国の人たちの来訪もありました。そして私たちの祖先は、この都に天平文化の花を咲かせたのでした。

平安京遷都後

都が京都に移ると、平城京のあとはまもなく田んぼになってしまいました。しかし、諸大寺がそのまま残ったおかげで、奈良は社寺の町として新しい歴史を歩むことになりました。
勢いをのばした興福寺をはじめ東大寺や元興寺のまわりに、しだいに「まち」=郷が生まれ、今日の奈良のもとが形づくられていったのです。

平家の焼き打ち

1180年(治承4年)平氏の焼き打ちにあって、大仏殿は焼け落ち、奈良は全滅に近い打撃を受けましたが、東大寺・興福寺の再建も成って、奈良の町は見事に復興しました。
13世紀の末にはすでに数十の郷を数え、15世紀の末、新興の堺に追いこされるまでは、京都に次ぐ日本第2の都市として繁栄しました。商業や手工業の堅実な発展があったからです。
つぎつぎに新しい郷が生まれ、16世紀のはじめには郷数200、人口2万5千を数えたといいます。そのころ京都では、酒や西の京の火鉢が名産としてもてはやされ、刀剣、蒔絵、団扇、人形などが堺に送られていました。

大仏さん2度目の災難

松永久秀が眉間寺山に多聞城を築いたのは、1560年(永禄3年)のことでした。初めて奈良が武家の支配下におかれたわけです。
それから7年後、久秀と三好三人衆との合戦が奈良に及び再び大仏殿が焼け落ちました。しかし、当時しだいに力をたくわえてきた町民たちの働きで、戦禍は最小限に食いとめられ、全部の郷を合わせた奈良町の成立がうながされることにもなりました。

江戸時代

江戸時代には、幕府の直轄領として奈良奉行の支配下におかれました。有力な町人の中から数人の惣年寄が選ばれ、奉行のさしずを受けて町政にあたり、そのもとに4名の町代がいて、実務を担当しました。17世紀末の調べでは、総町数205、人口3万5千人となっています。
江戸時代のはじめの奈良は、奈良晒をはじめ酒・墨・甲ちゅう・刀・団扇などの特産品に富み、なかなかの産業都市だったといえます。

明治を迎えて

江戸時代中頃から観光の町としての性格を強めるようになりましたが、明治維新を迎えたころの奈良は、いささか沈滞した町のふんいきになっていました。廃仏毀釈により、諸大寺も大きな打撃を受けました。1871年(明治4年)の廃藩置県で大和全体を管轄する奈良県が生まれ、奈良に県庁が置かれました。しかし、1876年(明治9年)奈良県が廃止されて、大和は堺県に続いて大阪府に属することになります。県庁所在地として立ち直るきっかけをつかんだ奈良にとって、これは大きな痛手となりました。
1887年(明治20年)奈良県の再設置が認められて県庁が戻ってきたことが、奈良に新しい息吹を与えることになりました。2年後、市町村制が定められた折には、人口不足のため市になることができませんでしたが、1898年(明治31年)待望の市制が施行されました。
この前後に大阪、京都へ鉄道が通じ、会社や銀行ができ、奈良公園の整備が進むなど、奈良もようやく県政の中心地としての面目を備えはじめていました。そして奈良市は、近代化をめざして着実な歩みを進めてきました。