はるの子どもたち

田淵 三菜写真家

誰もいない場所が好きだ。
「誰もいない」そう気がつくと、「わくわく」の気持ちで心が弾んでくる。
「わくわく」はいろんな気持ちに変化する。「わくわく」から「どきどき」、「どきどき」から「そわそわ」、「そわそわ」から「ぞわぞわ」、それから「ぞくぞく」っと、怖くなることもあるから、ちょっと危険な気持ちでもある。
誰もいない交差点、誰もいない教室、誰もいない砂浜、誰もいない森の中、、、
移動中でも、散歩していても、旅先でも、気がつけば誰もいない場所を何となく探している。
見つけた時は、その辺りをうろうろして、眺めたり、座ってみたり、鼻歌を歌ったり、写真を撮ったり、派手なことをする訳でもないけれど、誰もいない場所を見逃すことはできない。
誰もいない場所は、ずっといつまでも誰もいない場所もあれば、誰もいない時間という条件付きの場所もある。
また、大好きな場所を見つけた。
平日の昼間、ひとけのない柳生のまちは、歩くほどにどんどん時間が巻き戻って、いよいよ大昔にたどり着いたような錯覚にわくわくしてきた。
さらにひとけのない細い山道に入ってしばらく歩くと、まちを走る車の音も遠くなって、木々を揺らす風の音に取り囲まれていく。
古い鳥居をくぐると、木々の間に大きな岩がいくつも現れはじめた。さらに進むと、もっと道が細くなって、森の向こうに目的地の大きな石のある場所が見えてきた。
一刀石。

一刀石

そう呼ばれる大きな石は、ほんとうに刀で切ったように上から下に真っ二つに割れている。「この大きな石が割れた時には、どんな大きな音が空気を揺らしたんだろう」と、想像の「大きな石が割れる音」を頭の中で繰り返して、心を弾ませていた。
誰もいない森の中で、大きな石と私だけ。
と思っていたのも束の間、頭の中の「大きな石が割れる音」は突然ストップした。本物の音が聞こえてきたからだった。
何人かの子どもたちの楽しそうな声と女の人の声、足音もぞろぞろとこちらに向かってきているようだった。
「こんにちは〜」と私に挨拶しながら、十人くらいの子どもたちが石の周りに集まってきた。女の人は子どもたちを引率している先生なのだろう。
子どもたちはしばらく石の周りで遊んでいたかと思うと、先生の声に導かれて次々と石の上にぴょんぴょんと集められていった。
先生は子どもたちを石の上に集め終わると、絵の描かれた巻き物を広げて子どもたちに話しはじめた。
「一刀石と天狗の伝説のお話をします」
巻き物には刀を持った男と、立派な羽を生やした天狗が、一対一で戦っている様子が描かれている。
「いよいよ天狗を一切りにしたと思ったら、みなさんのお尻の下のこの大きな石が割れていたのです」
そう話が終わるまで、子どもたちは静かにじっと石の上に座って巻き物を眺めていた。
「天狗」なんて大人には古くさくてわざわざ想像もしない妖怪も、子どもたちの想像にかかればたちまち今の妖怪になる。
今、子どもたちの人数分の天狗が生まれた。
天狗たちは一体ずつ鼻の長さも大きさもバラバラ、青いのもいる。皆揃って一刀石の上に立ってこっちを見ていた。次の瞬間、いっせいに一刀石から跳び上がって、瞬く間に石から石へと飛ぶように渡りながら、散り散りに森のなかに消えていった。

目に見えないものを感じて、想像して何かやってみることが、子どもの頃の一番おもしろい遊びだったような気がする。
大人になった今も時々、そんな感覚を呼び起こして遊んでいたい。
誰もいない場所探しは、そんな遊び場探しなのかもしれない。
私の旅はつづく。

一刀石

誰もいない場所が好きだ。
「誰もいない」そう気がつくと、「わくわく」の気持ちで心が弾んでくる。
「わくわく」はいろんな気持ちに変化する。「わくわく」から「どきどき」、「どきどき」から「そわそわ」、「そわそわ」から「ぞわぞわ」、それから「ぞくぞく」っと、怖くなることもあるから、ちょっと危険な気持ちでもある。
誰もいない交差点、誰もいない教室、誰もいない砂浜、誰もいない森の中、、、
移動中でも、散歩していても、旅先でも、気がつけば誰もいない場所を何となく探している。
見つけた時は、その辺りをうろうろして、眺めたり、座ってみたり、鼻歌を歌ったり、写真を撮ったり、派手なことをする訳でもないけれど、誰もいない場所を見逃すことはできない。
誰もいない場所は、ずっといつまでも誰もいない場所もあれば、誰もいない時間という条件付きの場所もある。

また、大好きな場所を見つけた。
平日の昼間、ひとけのない柳生のまちは、歩くほどにどんどん時間が巻き戻って、いよいよ大昔にたどり着いたような錯覚にわくわくしてきた。
さらにひとけのない細い山道に入ってしばらく歩くと、まちを走る車の音も遠くなって、木々を揺らす風の音に取り囲まれていく。
古い鳥居をくぐると、木々の間に大きな岩がいくつも現れはじめた。さらに進むと、もっと道が細くなって、森の向こうに目的地の大きな石のある場所が見えてきた。
一刀石。
そう呼ばれる大きな石は、ほんとうに刀で切ったように上から下に真っ二つに割れている。「この大きな石が割れた時には、どんな大きな音が空気を揺らしたんだろう」と、想像の「大きな石が割れる音」を頭の中で繰り返して、心を弾ませていた。
誰もいない森の中で、大きな石と私だけ。
と思っていたのも束の間、頭の中の「大きな石が割れる音」は突然ストップした。本物の音が聞こえてきたからだった。
何人かの子どもたちの楽しそうな声と女の人の声、足音もぞろぞろとこちらに向かってきているようだった。
「こんにちは〜」と私に挨拶しながら、十人くらいの子どもたちが石の周りに集まってきた。女の人は子どもたちを引率している先生なのだろう。
子どもたちはしばらく石の周りで遊んでいたかと思うと、先生の声に導かれて次々と石の上にぴょんぴょんと集められていった。
先生は子どもたちを石の上に集め終わると、絵の描かれた巻き物を広げて子どもたちに話しはじめた。
「一刀石と天狗の伝説のお話をします」
巻き物には刀を持った男と、立派な羽を生やした天狗が、一対一で戦っている様子が描かれている。
「いよいよ天狗を一切りにしたと思ったら、みなさんのお尻の下のこの大きな石が割れていたのです」
そう話が終わるまで、子どもたちは静かにじっと石の上に座って巻き物を眺めていた。
「天狗」なんて大人には古くさくてわざわざ想像もしない妖怪も、子どもたちの想像にかかればたちまち今の妖怪になる。
今、子どもたちの人数分の天狗が生まれた。
天狗たちは一体ずつ鼻の長さも大きさもバラバラ、青いのもいる。皆揃って一刀石の上に立ってこっちを見ていた。次の瞬間、いっせいに一刀石から跳び上がって、瞬く間に石から石へと飛ぶように渡りながら、散り散りに森のなかに消えていった。

目に見えないものを感じて、想像して何かやってみることが、子供のころの一番おもしろい遊びだったような気がする。
大人になった今も時々、そんな感覚を呼び起こして遊んでいたい。
誰もいない場所探しは、そんな遊び場探しなのかもしれない。
私の旅はつづく。