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平城京左京三条三坊四坪発掘調査成果について
平城京左京三条三坊四坪発掘調査成果について
令和4年度に実施した平城京跡第776次調査について、下記の通り重要な発掘調査成果がありました。
- 調査地
奈良市大宮町四丁目 - 調査原因
民間開発 - 調査期間
令和5年1月12日~3月10日 - 調査面積
368平方メートル - 調査機関
奈良市教育委員会 教育部 文化財課 埋蔵文化財調査センター
四町分を利用した大規模宅地およびその主屋域の中心建物を確認
今回の調査地は平城京の条坊復元では、左京三条三坊四坪の北東隅部で坪の北と東を限る条坊道路の交差点付近に想定されていました。
- 調査の結果、四坪の東を限る東三坊坊間西小路西側溝を検出しました。同時にその溝より、古い時期の建物跡(建物1~4)の存在を確認しました。つまり、この建物は西小路上に建つことになり、この四坪と東隣の五坪は一体で利用されていたことが判明しました。
- 今回の調査では、北側を限る道路側溝は検出できませんでしたが、発掘区北端部で検出した建物(建物1)はその規模から、北側に展開する可能性が高く、三条条間南小路上に及んでいると考えられます。このことから、四坪は北側の三坪とも一体で利用されていたことになります。
- 上記の結果、四坪は北の三坪、東の五坪と一体で利用されていたと考えられますが、北東側の六坪も併せて方形の四坪利用と考えるのが妥当であると考えられます。
奈良時代の宅地は位によって班給される面積が異なり、高級貴族ほど平城宮に近い広大な宅地を与えられることが多いと想定されています。平城京内の発掘調査で確認されている四町規模の宅地は、左京三条二坊一・二・七・八坪の長屋王邸(現ミ・ナーラ付近)が有名です。この他左京一条三坊十一坪・十二坪・十三坪・十四坪(奈良市立一条高校学校地付近)、左京二条四坊一・二・七・八坪(現奈良第三地方合同庁舎付近)があり、今回の調査はこれらに続く4例目の発見となります。
東三坊坊間西小路を跨ぐ建物はこの小路の西側溝により柱穴の一部が壊されていました。このことから、建物廃絶後に小路が施工されたことがわかりました。また、東三坊坊間西小路を跨ぐ建物は建物1~3→建物4の順で、2時期の変遷が確認できました。今回出土した遺物の整理は未着手で、正確な時期はつかめていません。しかし、平城京跡第391次調査で検出された東三坊坊間西小路西側溝では奈良時代後半の土器が出土しており、今回の調査で検出した建物の柱穴から出土した瓦は奈良時代前半であることから、奈良時代前半に建物が建て替えられ、廃絶した後、奈良時代後半に条坊が施工された可能性が高いと考えられます。
今回検出した建物1~4は、東三坊坊間西小路の中軸上に建物の中軸が位置する可能性があり、7間もしくは7間以上の桁行を持つ大型東西棟掘立柱建物と推測できます。瓦の出土状況から甍棟もしくは熨斗棟の屋根であった可能性もあります。建物1は三条条間南小路に近い位置で検出され、建物規模から、四町宅地の中心に位置する主屋建物と考えられます。
平城京左京三条三坊三・四・五・六坪の過去の調査では、大型東西棟掘立柱建物が南北に並列する例が平城京跡第120次調査と第768次調査、平城京跡第279次調査と第375次調査でみつかっており、また、宅地内を区画する掘立柱塀が平城京跡第466次調査、第768次調査、県1986年調査で検出されています。掘立柱塀に囲まれた区画が少なくとも3か所あり、長屋王邸の様相と共通したものと考えられます。
平城京左京三条三坊三・四・五・六坪に衛門殿という小字が残ることを岸俊男氏1)が指摘し、奈良時代前半の四町宅地であること、瀬後谷瓦窯の瓦が供給されていること、水運に適した佐保川沿いの立地、三条大路北側溝出土木簡から藤原氏に近い人物であることなどの理由で、近江俊秀氏2)が舎人親王邸と推定した場所です。今回の調査でも居住者が分かる資料は出土しませんでしたが、宅地の規模が明確化し、その中心的な建物を検出したことにより、長屋王邸と比較しうる資料を得ることができました。
現在の佐保川は三条三坊三坪・四坪の中央付近を流れていますが、奈良時代の佐保川については三坪・四坪の西側を流れていたなどの復元案が提示されています。しかし、建物が四町宅地の中軸に配置されていることから、佐保川が三条三坊三坪・四坪の中央付近を流れていた可能性は低くなったと考えられます。平城京の重要な水運の一つである佐保川の位置を再考する必要も出てきました。
参考文献
- 岸俊男1974「3遺存地割・地名による平城京の復元調査」『平城京朱雀大路発掘調査報告』奈良市
- 近江俊秀2015『平城京の住宅事情 貴族はどこに住んだのか』吉川弘文館