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里親支援ミニコラム「里親家庭におじゃまします!~里親を支える人たち編~」第5回

2019年11月7日更新 印刷ページ表示

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里親制度ってなに?どんな生活をしているの?
耳にすることはあるけれど、実はよく知らない里親制度。
今年度は、里親さんを支える人たちにインタビューに行ってきました!

里親支援事業では、今年度は里親さんを支える人たちにインタビューを行っています。
今回は、里親家庭で生活をしたことがある、元里子の山川宏美さんにお会いすることができました。里親さんが「人生を救ってくれた」と言っている山川さん。どんな思い出があるのか、お聞きしました。
(奈良市にお住まいの方が里親になるための申請・訪問調整は、奈良県中央こども家庭相談センターが行っています。里親制度について)。

平成30年度連載 「里親家庭におじゃまします!~里親を支える人たち編~」

平成29年度の里親インタビューはこちら↓ (注:コラム内のお名前は全て仮名です)

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里親家庭で過ごしていたことがあるとお聞きしましたが、どのくらいの時期に里親さんのところへ行くことになったのでしょうか?

私が2歳の頃、両親が離婚しました。その後母のところに行ったり、父のところへ行ったり、児童養護施設に入ったり、転々としていました。
母のことは、幼すぎて記憶にはほぼありませんでした。父とは、父の住んでいる県へ引き取られ、児童養護施設に入ってからもたびたび面会をしていました。その後、私が4歳の時、里親さんのところへ預けられることが決まりました。

里親さんの家に初めて行った時のことは覚えていますか?

里親さんの家に預けられた日の晩のことは今でも覚えています。里母は私に「ずっとここにいていいのよ」と優しく微笑んでくれました。その時から、私は里母のことを「お母さん」と呼ぶようになりました。
里親さんのところへ行くときにはなんとなく自分の置かれた環境はわかっていました。それでも違和感なく、里母のことを「お母さん」と呼び、里母も私のことを「ひろみちゃん」と言っていつも一緒にいて、抱きしめてくれていました。

どんな里母さんだったのですか?

いつもいつも、私を中心において考えてくれる人でした。
里親さんの家は田舎にあったので、当時は50代の里母と4歳の私では、おそらくまわりにいろいろ思われていたと思うのですが、里母は全く気にかける様子はありませんでした。私も「お母さん」と里母を慕っていたし、里母は海や山など、いろんなところへ私を連れて行ってくれました。

里親さんの家があった地域では、運動会になると、たくさんおかずをつくってお重に詰めたお弁当を持っていくんです。料理の大好きな里母だったので、運動会が近づくと、何日も前からどんなメニューにしようか考え、いつも豪華なお重のお弁当を運動会で食べていました。

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里親さんのところにいたころの、思い出に残るエピソードなどはありますか?

 その当時は安心できる場所があり、自分を抱きしめてくれる人がいるということが当たり前すぎて、それが普通だと思っていました。里母も、当たり前のように私を大事にしてくれていました。
小学校低学年の頃のことです。遠足の前日に、親に手紙を書く授業がありました。いつもおいしいお弁当を作ってくれていた里母への手紙の中で、ふとクッキーがお弁当に入っていたら素敵だなと思い、「クッキーが楽しみ」と書き里母に渡しました。それを見た里母は“お弁当にクッキーが入っていなかったらひろみちゃんが悲しい思いをしてしまう”と思ったようです。私もその時なぜクッキーが楽しみだと書いたのかわからないのですが、そのとき里母が、私が悲しい思いをしないようにと、作ったことのないクッキーを一生懸命準備してくれたことが、とても心に残っています。


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その後はどうなったのですか?

小学3年生の頃くらいから、母が私に会いたいと言ってきて、たびたび面会をしていました。そして、小学6年生の途中に、母と祖母と一緒に暮らすことになりました。

里親さんとはその後もつながっていたのですか?

 母のところに行くことを、ずっと里母は心配してくれていました。そして私が母のところへ行ってからも、何時間もかかる距離を、「近くに来る用事があったから」と訪ねてきてくれることがありました。また、電話や手紙をたびたびくれました。

母や祖母は、里母が私と連絡を取り続けることをよく思ってなかったようなので、次第に母や祖母から隠れるように連絡を取ることにはなったのですが、それでもずっと里母とつながっていました。里親さんの家にいたころに母と面会した時は、母と仲良くできていたのですが、母と祖母と一緒に暮らし始めてからは衝突することも多くなっていました。そんな状況の私のことを、連絡を取り続けることで里母はずっと支えてくれていました。

家から早く出たかったので、23歳の時に結婚して家を出ました。結婚式には里母も呼びました。出産した時は、誰よりも早く駆けつけてくれたのが里母でした。
夫が転勤族で、結婚後しばらくは全国各地を転々とすることになったのですが、どこへ行っても、毎回毎回、里母がいろいろなものを送ってくれました。

里親さんと過ごした思い出が、今の自分の生活に影響を与えているものはありますか?

里親さんにしてもらったことは、当時の私は幼すぎたり、当たり前すぎたりして、どんなことなのか考えることもありませんでした。けれど改めて考えてみると、よりどころがあるというのはとても大きなことだと思います。当時私は自分のことばかり考えて日々を過ごしていましたが、里親さんに安心できる場所を与えてもらったからこそ、自分のことに集中して力を注げたのです。実は私は、生みの親から虐待されていた記憶があります。母のところに行ってからもうまくいっていなかったことのほうが多かったです。苦労しましたが、里親さんが心の支えとなってくれたからこそ乗り越えられました。母ともいろいろありましたが、今は連絡をとりあったりしています(インタビューの日はお母さんの誕生日だったそうで、ケーキ買っていこうかなと話されていました)。

また、今思えば、里親さんの周りの人もたくさん気にかけていてくれたのだと思います。里母も里父ももう亡くなってしまいましたが、里親さんの実子さんたちが里親さんの郷里にいらっしゃるので、たびたび子どもと一緒に遊びに行っています。実子さんたちもとても可愛がってくれて、今でも帰るたびに大歓迎してくれます。
学校の先生も、当時その地域では珍しかったであろう、養育里親さんのところにいる私のことを、とても心配してくれていたように思います。そしていろんな人に支えられた、その中心に里親さんがいました。

私が児童養護施設にいた頃、父とは面会がありましたが、父は私のことを「お金になるから18歳で引き取る」と周りに話していたそうです。里親さんとめぐりあえなかったら、私は今のような生活はできていなかったに違いないと思います。里親さんがいたからこそ、今までの人生を歩んでこられた、里親さんが私の人生を救ってくれたのだと思っています。
結婚するときに荷物を整理していて、小学生の文集の裏に、里母の書いた文章を見つけました。そこには、巡り合った縁を大事に、お嫁に行くまで育て上げたいという意味のことが書かれており、深い愛情に涙が止まりませんでした。

子ども時代によりどころがあることで、社会に出て悩んだり困難にあったときに対応できる力が身についていくのだと思います。将来、家庭をもったときに描く「家庭像」も、里親家庭だからこそ自由に描けるのではないかと思います。里親制度の啓発に私が関わったきっかけは、あるNPOの里親啓発のポスターを見たことでした。それまでは、みんな当たり前のように知っている制度だと思っていたのです。当たり前に知られている制度ではないと知ったときはとてもショックを受けました。

私は素敵な里親さんに巡り合いました。そのような境遇は「運がいい」と言われたこともあります。けれど私のように、当たり前に里親制度を利用できる子どもたちが増えていくことを願っています。そのために、私にできることとして、里子だった頃の体験談を、各地で話しています。里親制度が当たり前の制度になるよう、これからは若い人に向けても啓発をしていきたいと思っています。

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話を聞いていると、優しく温かく山川さんを育てた里親さんの姿が目に見えるようでした。貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

おじゃましますの画像8偶数月は「さとおやミニ講座」開催中 (該当ページにリンクします)